怒るは状態にも過程にも開きやすいが、激怒するはサ変動詞として出来事の輪郭を強く出す。漢語語幹+する構文は、開始と終了のあるイベントとして情動を切り取る傾向がある。文法的に言えば、程度の継続より、発生の完了に読者の注意が向く。怒っている最中の描写より、怒ったという転換点の描写と相性がよい。品詞の形が、時間の取り方を先に決めてしまう。形を選ぶことは、カメラをどこに置くかを選ぶことに等しい。
格支配も示唆的だ。怒りの対象はにやをで示せるが、このサ変では〜に激怒するが自然で、をは媒体や要因に寄りやすい。共起する副詞も、徐々に・だんだん、といった漸進より、突然・一瞬で、といった瞬間に寄る。アスペクトの好みが、語彙のイベント性を裏書きする。進行形の激怒しているは可能だが、書き言葉では完成した断定——激怒した——の方が頻度が高い印象がある。状態の維持より、記録に残る変化として使われやすい。議事録や見出しが好むのも、その完成相のせいだ。
太宰治の走れメロスが、メロスは激怒した、の一文で始まるのは、この語形の性質をよく示している。物語の最初の一行が完成相であるということは、読者が到着した時点で怒りがすでに完了しているということだ。原因も過程も見せないまま、結果だけが置かれる。続く文はその怒りの理由を後追いで説明する形になり、読者は結論を先に受け取ってから根拠へ降りていく。サ変の完成相は、こうして語りの順序そのものを設計できる。同じ内容を、メロスはひどく怒っていた、と和語で書けば、読者は状態の内側に置かれ、疾走の起点になる断層は生まれにくい。冒頭の一行が走り出せるかどうかは、語彙の強さではなく、相の選択で決まっている。
否定と可能の形も非対称だ。激怒しないは抑制の宣言になり、激怒できないは能力や状況の制約になる。一方、怒らない/怒れないは日常の制御感覚に近く、道徳や気質の話へ広がりやすい。使役と受身では責任の配分が動く。激怒させるは引き金を引いた側へ焦点を移す他動的な構文で、主語は当人ではなくなる。逆に激怒されるという受身はかなり不自然で、ほとんど使われない。怒りを向けられた側を主語にする席が、この漢語サ変には用意されていないということでもある。文法の空席は、書き手にとっては迂回路の指示に読める。連体形にも偏りがあって、激怒した上司は出来事のあとの姿を指し、激怒している上司は進行中の場面を指すが、後者は据わりが悪く、和語の怒鳴っているに置き換えられやすい。据わりの悪さは、その形が担う仕事の少なさを表しています。
漢語サ変は、より公的・報告的なレジスタへ話を引き上げる。新聞の見出しや社史の叙述で選ばれやすいのは、その報告性のせいだ。会話文にそのまま置くと、キャラが声明を読んでいるように聞こえることがある。聞こえること自体が、文法レジスタの効果である。効果を意図しないなら、会話では和語動詞に落とす方が自然だ。小説では、サ変を地の文の要約に使い、現場の時間は和語動詞と身体描写に任せる配分が安定する。転換点で一度だけサ変を置き、その前後は声量・手の動き・間で埋める。活用の選択肢——する/した/している/しつつある——のうち、どの形を選ぶかが視点の距離になる。したは事後報告、しているは同席、しつつあるは観察者の分析に近い。怒りそのものより、どの活用で読者に渡すか。その統語の選択が、この語の本体に近い。本体を統語側に置くと、修飾語を足す必要が減る。