キーボードで「いきどうる」と打っても、この語は出てきません。「いきどおる」でなければ候補に上がらない。入力の失敗としてはよくある部類ですが、ここには一つ、機械が正しく厳格である理由があります。現代仮名遣いでは、オ列の長く伸びる音は原則として「う」を添えて書きます。ところが、歴史的仮名遣いで「ほ」や「を」だったものは例外として「お」を使う。通る、遠い、氷、大きい——そして、いきどおる。つまりこの表記は、かつて「いきどほる」と書かれていたことの痕跡です。語源そのものについては複数の説がありますが、少なくとも表記の上には、古い形が化石として残っている。変換辞書はその化石を保存しているだけで、意地悪をしているわけではありません。
同じ字を共有していても、機械にとって別物になる場面もあります。形態素解析にかければ、この動詞と、その名詞形と、同じ字を含む漢語は、それぞれ独立した項目として扱われます。人間の頭の中では一つの束に見えるものが、辞書の上では並んでいない。全文検索でも似たことが起きます。漢字一字を鍵に引けば、読みの異なる語が同じ結果に混ざる。読みを鍵に引けば、表記の違いを跨げない。索引を設計する人間は、表記の層と音の層のどちらを鍵にするかを、最初に決めなければなりません。どちらを選んでも取りこぼしは出る。
日本語入力の側には、もう一段の選別が働いています。同じ読みに複数の候補があるとき、変換器は使用の履歴と頻度で候補の順序を組み替える。よく選ばれた語は上へ、選ばれない語は下へ沈みます。沈んだ語は目に入る回数が減り、目に入らない語は選ばれる回数がさらに減る。順序づけの規則そのものは中立でも、運用の結果として書き手の語彙は少しずつ痩せていきます。手書きの時代には、思い出せるかどうかだけが関門でした。いまはその手前に、候補一覧の何番目に置かれるかという関門がもう一つある。しかも後者の関門は、通過に失敗したことが書き手に知らされません。
情報理論の側から見ると、この偏りには先例があります。符号を設計するとき、出現頻度の高い記号に短い符号を、低い記号に長い符号を割り当てると、全体の長さが縮む。ハフマン符号の考え方です。自然言語の語彙にも似た傾向が観察されていて、頻度の高い語ほど短い形を持ちやすいと言われます。この動詞は五拍、代わりに置かれることの多い「怒る」は三拍。長さの差がそのまま頻度の差を映しているとまでは言えませんが、少なくとも長い語を選ぶことは、その一語のために余分な時間を支払う選択ではあります。もっとも、短さが常に選ばれるとはかぎりません。長い語を選ぶこと自体が、書き手がその一語に手間をかけたという合図になる場面がある。報道の見出しがこの動詞をわざわざ使うとき、伝わるのは怒りの内容だけでなく、それを短い語で済ませなかったという判断のほうです。符号の効率と文体の選択は、同じ長さの上で逆を向くことがあります。
ここで、うっかり誤用しやすい概念があります。編集距離です。二つの文字列を一致させるのに必要な挿入・削除・置換の最小回数で、たとえばこの語と「怒る」は、表記の上でごく近い位置にある。近いのだから意味も近い、と言いたくなる。しかしそれは編集距離の定義の外です。編集距離が測っているのは文字列の操作コストであって、意味空間の距離ではありません。文字列上で一手の差しかない語が、意味の上で正反対ということも普通に起こります。
この区別を怠ると、実務で壊れます。原稿の語彙を強めようとして字だけを一括置換すれば、関係のない語まで巻き込まれます。「怒鳴る」は「憤鳴る」になる。読みの違う語が同じ字を共有しているだけで壊れるわけです。語の単位で置き換えた場合も安全ではありません。「怒る」を入れ替えれば三拍が五拍になって文の尺が動き、「怒らせる」に対応する形は座りが悪くなる。文字列としての近さは、拍数の互換性も、使役や受身の作りやすさも保証しないからです。
そこから引き出せることは、語の選択が単一の操作ではない、ということでしょう。ある語を別の語に替えるとき、動いているのは意味の層だけではありません。文字数が変わり、拍数が変わり、字面の黒さが変わり、その語が属する語彙圏——日常か、報道か、文語か——も同時に切り替わる。層ごとに別々の距離があり、片方が近くても他方が遠いことがある。機械がそれを別々に扱っているのは、人間の側でもそれらが別々に効いているからです。