会見の席で「厳正に対処してまいります」と述べられるとき、その一文は処分の内容を何ひとつ含んでいません。誰が、どの規定に照らして、どの重さの処分を受けるのか。全部空白です。それでも聞き手は何かを受け取っている——空虚な定型句が定型句として生き延びるのは、受け取れる何かがあるからです。受け取っているのは処分の中身ではなく、処分の決め方についての約束のほうです。この語が引き受けているのは対象ではなく手続きなのだ、という見当が、ここでひとまずつきます。
この約束は未来へ向いています。すでに出た結論を形容するより、これから調査する、審査する、処理するという未完了の行為に添えられやすい。したがって聞き手が求めるのは具体的な罰ではなく、結論へ至るまで例外を設けないという予告です。
近い語と並べると焦点の位置がはっきりします。厳格は、基準そのものが緩まないことを言う。厳密は、記述と対象のあいだにずれがないことを言う。それに対してこの語が問題にしているのは、すでに存在する基準を誰に対しても同じ形で当てる、という一点だけです。基準の中身には関与しない。だから、ゆるい規則を厳正に運用することは論理的に可能で、これは矛盾ではありません。意味の焦点が、基準の側ではなく適用の局面に置かれている、と言い換えられます。
たとえば提出時刻を一分でも過ぎれば受理しない規則は厳格で、その時計が正しいかを秒単位で確かめる作業は厳密です。そして遅れた者が誰であっても同じ処理をすることが厳正に当たる——三つは同じ窓口に同時に現れても、見ている箇所が違う。
共起を見ていくと、この見立てはさらに狭まります。審査、抽選、試験、処分、中立——結びつく名詞は、どれも複数の対象を同じ手順で処理する場面を指しています。一人しかいない場面ではうまく働かない。ある人物を評して「厳正な性格だ」と書くと、座りが悪い。性格は場面ごとに再適用されるものではないからです。この語は、繰り返し同じ操作が行われる場所にしか降りてこないように見えます。
動詞との結びつきにも偏りがあります。対処する、審査する、処分する、運用するといった、対象へ規則を働かせる動作とはよくなじむ。感じる、悩む、好むのような内面の動詞とは結びにくい。語が行為者の心情を離れ、外から観察できる処理の一貫性を指すためです。
ただし反例が自分の手元にあります。「厳正な態度で臨む」は普通に言える。人にかかっているではないか。しばらく考えて、態度と性格の違いに落ち着きました。態度はその場かぎりの職務上の構えであって、人格の記述ではない。裁定を下す立場に置かれた人が、その回、その場で私情を差し挟まなかったことを述べている。つまりこの語が人に向くときも、見ているのはやはり役割のほうです。プロトタイプの中心には、人よりも手続きがあると考えてよさそうです。
制服を脱いだ後の会話まで同じ形容で覆う必要はありません。審査室では応募者の名を伏せて採点し、帰宅後には身内の成功を喜ぶ人物も矛盾しない。
もうひとつ、上位の語との関係が残っています。公正は結果の配分が妥当であることまでを含みます。この語はそこまで踏み込まない。手続きの遂行だけを保証する。だから、同じ規準を全員に等しく当てた結果、ある集団に不利が集中したとしても、手続きが揺れていなければ条件は満たされてしまう。ここに裂け目があります。正しさが人を傷つける場面を書きたいとき、この語は使えます。制度の側の人物に、私情を持ち込まなかったことだけを述べさせる。読者はその一語から、彼が何を差し引いたのかを逆算します。
同じ扱いと妥当な扱いが食い違う場面では、配慮を例外と呼ぶか調整と呼ぶかが争点になります。階段しかない会場で全員へ同じ入口を示すことは一貫していますが、参加条件の平等までは保証しない。運用者が胸を張るほど、その語が覆い隠した結果の偏りが見えてきます。