英語に落とすとき、この形容は一つの訳語に定まらない。雨なら heavy や intense、争いなら fierce や violent、感情なら intense や passionate——源語の強さが、英語側では領域ごとに別語へ分割される。訳しにくさの中心は、日本語が強度のスケールを広く共有し、対象領域の区別を文脈に任せている点にある。雨も恋も攻撃も、同じ強度語で修飾できる。便利であると同時に、翻訳者には領域ラベルを後付けする義務が生じる。義務を怠ると、訳文は強度だけが残った平板な列になる。
対照言語学的に見ると、これは程度形容詞のプロトタイプが力の大きさにあり、適用先が広いことを示す。ドイツ語やフランス語でも、強さの語は領域ごとに語彙が分かれる傾向がある。日本語話者が激しい議論と自然に言えるところを、他言語では議論用の慣用へ切り替える必要が出る。逆に、日本語へ訳すとき intense をすべてこの語にすると、文体が単調になる。領域に応じて激しい/猛烈な/苛烈な/激昂したへ振り分ける作業が、実は翻訳の本体に近い。振り分けは、語彙力の問題であると同時に、世界の切り分け方の問題でもある。
面白いのは、日本語の側にも領域ごとの分割が制度として存在する場合があることだ。気象の予報用語では雨の強さが段階に整理されていて、一時間あたり三十ミリ以上五十ミリ未満が激しい雨、五十以上八十未満が非常に激しい雨、八十以上が猛烈な雨と決められている。日常語では輪郭のぼやける強度語が、この領域に限っては数値の区間へ写像されている。英語の heavy rain に同じ形の公式な区切りが対応しているわけではないので、訳す側は数値情報を落とすか、注記で補うかを選ぶことになる。気象通報の翻訳が難しいのは語彙の不足のせいではない。目盛りの刻み方そのものが言語ごとに違うからだ。そして日本語の書き手も、日常の会話でこの区分を意識してはいない。同じ語形が、制度の内側では定義語、外側では感覚語として二重に生きている。
小説の地の文では、この広さが両刃になる。何にでも付けられるため、情報量が落ちやすい。雨が激しい、風が激しい、痛みが激しい——並ぶと強度だけが残り、質感が消える。英語なら別語になる差を、日本語では共起名詞や動詞で補う必要がある。雷のような、鉄砲水のような、といった比喩は、訳語分割の代わりに質を足す装置だ。翻訳調を避けるなら、強度語を減らし、具体の運動を増やす方が安定する。運動が増えれば、強度は読者が自分で測る。
実務としては、一場面一領域まで、を目安にするとよい。天候に使ったなら感情には別語、戦闘に使ったなら会話の温度には別語。同一語の連続は、翻訳で言う語彙の貧困と同じ印象を残す。字幕のように文字数の上限がある媒体では、この振り分けがさらに露骨な選択になる。強度と領域の両方を一語で運べないとき、訳者はどちらを捨てるかを決めなければならない。捨てる順序に一貫性があれば訳文は読めるが、場面ごとに気分で入れ替わると、読者は強度の目盛りを信用しなくなる。多言語の分割を頭に置くことは、外国語を書くためではなく、日本語の強度語を領域付きで使うための訓練になる。一語に畳まれたものを、意識の中で一度ほどく——その一手間が、描写の解像度を戻す。解像度が戻ると、同じ強さでも触感が違う。