「薔薇のような人ですね」と言われた人物が、それを褒め言葉として受け取るかどうかは、その場の何が決めているのでしょうか。色のことか、香りのことか、豪奢さのことか。あるいは棘のことを言われたのだと受け取る余地も、この比喩には常に残っています。直喩は「AはBに似ている」と述べるだけで、どの点で似ているのかを指定しません。形式の上では、指定を省いているのではなく、そもそも指定する場所がない。似ているという述語には、似ている次元を書き込む欄が用意されていないのです。
語用論では、この種の情報不足がかえって推論を起動させると考えます。会話には、必要な情報を必要なだけ提供するという緩やかな約束がある。話し手がそれをあからさまに下回ったとき、聞き手は「不注意だ」とは判断せず、「何かを言外に伝えようとしている」と読む。グライスが量の格率と呼んだものの、典型的な使われ方です。属性を伏せた比喩は、聞き手に穴埋めを委ね、その穴埋めの責任も一緒に渡してしまう。だから褒めたつもりが刺さることがあり、刺したつもりが褒め言葉として通ることもある。責任の所在が曖昧になること自体が、この形式の機能なのかもしれません。
ここで自分の観察に異議を唱えておきます。実際の文章で、この比喩がそこまで宙に浮くことは稀です。頬に掛かれば色の話になり、香りに掛かれば匂いの話になる。人生に掛かれば華やかさの話で、性格に掛かれば棘の話です。穴は思ったほど開いていない——決めているのは後続の名詞であって、聞き手の自由裁量ではありません。それでも残るものがある。その決定を担っているのは語の意味ではなく、花についての世間並みの知識だということです。薔薇に棘があると知らない読者には、棘の読みは起動しません。比喩は言語の内側だけでは完結しない。
もうひとつ、直喩と隠喩では発話としての性格が違います。「彼女は薔薇だ」は断定で、外れていれば話し手の責任になる。「彼女は薔薇のようだ」は提案で、話し手には撤退路が残っています。似ていると言っただけで、同じだとは言っていない。この退路の確保は、丁寧さの装置としても働きます。強い評価を下すとき、直喩は角を落とす。近い形式を並べてみると差が見えてきます。「薔薇めいた」は話し手の判断が前に出て、押しつけがましくなる。「薔薇のようなもの」まで緩めると、今度は評価そのものが逃げていく。ヘッジの強さには段階があり、人物同士の力関係を書く場面では、どの段階を使わせるかがそのまま関係の描写になります。
さらに、この比喩には自己言及的な逃げ道もあります。使い古された表現だと書き手が承知している場合、言及の形に切り替えることができる。薔薇のようだ、と言えばそれまでだが——と前置きしてから使えば、陳腐さの責任は言葉のほうへ移り、話し手はその外側に立てる。語用論的にはかなり特殊な操作です。表現を使いながら、同時にその表現を評価してみせる。
創作の実務としては、扱いの難しい表現です。褒め言葉としては使い尽くされていて、地の文に置くと語り手の語彙が浅く見える。ただし、それは欠点としてだけ使えるわけではありません。会話文の中で登場人物に言わせたとき、この比喩は話者について多くを語ります。とっさに花を持ち出す人物、その中でも最も手垢のついた花を選ぶ人物、そしてそれを言われた側がどこを聞き取るか。陳腐な比喩は、誰が口にするかを決めた瞬間に、陳腐さごと情報になります。