六つの拍を、何かを切り捨てるために使う。声に出すと分かりますが、これは短くない語です。近い意味の語をいくつか並べて拍を数えてみると、五拍のもの、七拍を超えるものが混じっていて、幅がある。長さの違いは些細に見えて、文の中に置いたときの挙動をかなり変えます。文末に据えたとき、六拍は一息では収まりきらない。読点の直後に置けば、その一文の後半をまるごと占領してしまう。
まず気になるのが、反復構造です。同じ二拍を二度繰り返して、そこに形容詞の語尾が付く。この畳み方は、意味を強めているように見えて、実のところ強めていないのではないか——そう思って自分の使用感を確かめると、確かに、鋭い罵倒として使った記憶がありません。刃物のようには聞こえない。反復は強調の装置だと習いますが、拍が伸びるぶん、声が刺さる密度は下がる。強度と長さは、単純な比例関係を結んでいないようです。
同じ畳み方を持つ語を集めてみると、揃い方に規則があります。しらじらしい、そらぞらしい、よそよそしい、いまいましい、なまなましい、みずみずしい。二拍の語基を二度繰り返し、そこへ「しい」を接ぐ。二拍が二回で四拍、接尾が二拍で、合計はどれも六拍にきれいに収まります。そして揃っているのは長さだけではありません。並べて意味を眺めると、大半が対象の性質そのものではなく、その対象に向き合った話し手の構えを述べている。白いかどうかではなく、白々しいと受け取った誰かがそこにいる。新しいかどうかではなく、生々しいと感じた誰かがいる。二拍を二度通るという語形の型が、話し手を文の中へ引き込む装置として機能してきたように見えます。物の寸法や色を客観的に測る形容詞に、この型がほとんど見当たらないことも、同じ事情を裏側から示しています。長さと機能が同時に揃うのは、偶然にしては出来すぎている。
計量の側から見ると、もう少し具体的に言えます。一文の中で評価語が占める拍数の比率を考えてみる。二十拍程度の短い文にこの語を置けば、三割前後が評価に費やされる計算になります。描写の文にこれを混ぜると、その文はもう描写をしていない。読者の目の前で、風景が止まって話者の判定だけが残る。地の文でこの語を頻繁に使う原稿が、状況説明の薄い印象になりやすいのは、比率の問題として説明がつきそうです。会話文なら比率が高くても構わない——人物は判定を述べるために口を開くのだから。
同じ六拍でも、文のどこに置くかで効き方が変わります。文末に据えれば、そこで文は終わるほかない。判定が最後に来てしまえば、後ろに情報を足す余地が残らないからです。連体修飾へ回して「ばかばかしい話を聞かされた」とすれば、六拍は文の途中に沈み、文はそのまま出来事の報告へ進んでいく。占める拍数は同じなのに、読者が受け取る温度は下がります。文末は判定の席で、文中は前置きの席だ、と言い換えてもよさそうです。原稿を点検するときも、この語の総数を数えるより、文のどこに現れているかを見るほうが早い。文末にばかり集まっていれば、その原稿は場面を書き終える前に判定を配っていることになります。
ここで自分の観察に反論を用意しておきたい。長い語は鈍く、短い語は鋭い、という図式は乱暴すぎます。五拍の同義語を思い浮かべると、確かに切れ味は増しますが、増えているのは鋭さというより冷たさです。短い罵りは、対象を素通りして立ち去る。対して六拍を費やす罵りは、口を大きく開き、同じ音を二度通過し、語尾まで下りてくる。この間、話者は身体を使い続けている。長さは温度に対応しているのであって、鋭さと反比例しているわけではないのでしょう。呆れた人ほど長い語を選び、憎んでいる人ほど短い語を選ぶ。そんな傾向が、拍数の側から裏づけられるように思えます。
だとすると、人物に何かを切り捨てさせる場面で、書き手が選んでいるのは語彙ではなく発話の所要時間です。六拍分の時間をその人物に与えるかどうか。与えれば、その間だけ相手は口を挟めず、話者は自分の呆れを味わう猶予を得る。与えなければ、判定は一瞬で終わり、次の行動へ移れる。同じ「取るに足らない」という判断を下していても、拍数の違いは、その判断にどれだけ心を割いたかの記録になる。罵る場面を書き直すとき、意味の強さを比べるより先に、口の中でそれぞれを声に出して長さを測ってみるほうが、選択は早く決まります。