ふ・か・い、で三拍。後ろに二拍の名詞を置けば、合わせて五拍になります。深い霧、深い闇、深い森、深い傷。並べてみると、どれも聞き覚えがありすぎる。五拍という単位は日本語の定型詩が使ってきた区切りで、そこに収まる組み合わせは口に乗りやすく、乗りやすいものは先に使い尽くされる。手垢の正体の一部は、意味ではなく拍数にあるのではないか——そう疑ってみる価値はあります。
疑ってすぐ、反証が出てきます。散文は定型詩ではない。読者は拍を数えていないし、五拍で切れる義務もない。ただ、読点までの長さと語の切れ目の位置が読みの呼吸を作ることは、音読してみれば分かります。三拍の形容詞に二拍の名詞という組は、途中に息継ぎの余地がない。一息で言い切れてしまうから、文の中で一個の塊として沈み、輪郭を失う。三拍に四拍を足した深い悲しみで七拍、三拍どうしを重ねた深い眠りで六拍。五拍の型から一拍でも外れる組はもう少し粘りますが、粘るぶん語り手の身振りが見えます。効き目は句読点を外して音読すると測れます。ふかいきりがでていた、と仮名のまま続けて読むと、形容詞と名詞のあとに助詞が一つ乗るだけで、息を継ぐ場所を見つけられないまま述語まで運ばれてしまう。読点を打てないほど短い塊は、読者の注意が降りる足場を作れない。
拍のほかに、もっと厄介な性質があります。この形容詞は、削っても命題があまり減らない。深い悲しみを悲しみに変えても、誰が何を感じているかは変わりません。残るのは程度の指定だけで、しかもその程度は数値に対応しない。語彙密度という尺度は、文中の内容語の比率を見るものですが、この語は内容語の顔をして機能語に近い仕事をしています。密度の計算では一語ぶん働いているように見えて、情報としてはほとんど何も足していない。
値段の問題でもあります。同じ役目を担わせられる表現を拍で並べると、差は歴然としています。底知れない、は そ・こ・し・れ・な・い で六拍。計り知れない、は は・か・り・し・れ・な・い で七拍。三拍でほぼ同じ位置に立てる語が手元にあるなら、書き手の手は当然そちらへ伸びます。しかも連体修飾の枠へ落とし込むだけでよく、文の骨組みを組み替える必要がない。一文の長さを測っても、伸びるのは三拍ぶんだけです。文長の分布をほとんど動かさずに情感だけを足せる——道具としては都合がよすぎる。都合のよい道具は必ず使いすぎることになります。語基のまま複合語へ入るとさらに縮んで、深手、深爪、深緑では ふ・か の二拍です。短さは長所ですが、短いものは目に留まりにくく、推敲のときにいちばん見落とされる。
だから、量が問題になります。仮に一話三千字の連載で、一話につき二回この語を使ったとします。百話で二百回。同じ形容詞が二百回、しかも多くは五拍の型で現れる。読者は個々の出現を覚えていませんが、文体の平均値としては確実に効きます。ある作家の文章が薄く感じられるとき、原因が語彙の少なさではなく、命題を増やさない修飾語の比率にあることは珍しくない。数え上げ自体は難しくありません。原稿を一括で検索し、章ごとの出現数を並べるだけです。分布を見ると、たいてい特定の種類の場面——回想、別れ、夜の描写——に固まっています。偏りの場所が特定できれば、直すべきなのは語ではなく、その場面で書き手が毎回同じ姿勢を取っていることだと分かる。数え上げは、思い込みより正確に自分の癖を教えてくれます。
もうひとつ、日本語の形容詞という品詞そのものの事情も絡んでいます。イ形容詞は新語がほとんど増えない、ほぼ閉じた集まりで、新しい形容は「〜な」の形か、名詞の連体修飾で作られる。つまり書き手が選べるイ形容詞の在庫は最初から限られていて、その限られた在庫の中で使用頻度の高い数語に負荷が集中する。頻度の偏りは書き手の怠慢というより、品詞の構造から来る圧力でもある。
対処は単純です。連体修飾の位置から動かす。深く息を吸う、と連用形にすれば、修飾先が動詞になり、拍の型も崩れる。ふ・か・く・い・き・を・す・う で八拍。動詞は二拍の名詞より長いことが多く、五拍の枠にはもう収まりません。型から外れた組み合わせは口に乗りにくく、乗りにくいぶん読者の目に一度引っかかります。あるいは深さそのものを名詞にして主語の位置へ運ぶ。位置を変えるだけで、同じ語が別の重さを持ちます。減らすより、置き場所を分散させたほうが、文体の平均値は素直に動く。