はかりが数値を返すようになるより前、重さは比較でしか捉えられませんでした。天秤の左右に載せ、傾いた側を「こちらのほうが重い」と呼ぶ。この操作が返すのは量ではなく、二つのあいだの順番です。順番だけを集めても、条件がそろえば十分に役に立ちます。どの二つを取っても必ず勝ち負けがつき、AがBより重くBがCより重ければAはCより重い。この二つの性質が満たされる集まりを、数学では全順序と呼びます。天秤しか持たない世界でも「いちばん重いもの」は確定できる。順序さえあれば最大は決まるからです。
決まりはするものの、手間はかかります。n個の品から最も重い一つを見つけるには、勝ち残り戦の形で比べていって、少なくともn回から一を引いた回数の比較が要る。一度の比較で敗者が一つずつ確定し、最後に一つを残すのだから、それより少ない手数では済まないという理屈です。さらに面倒なのは二番目を決めるほうで、最大を決めたときの記録を使い回さなければ、また同じだけの手間がかかります。順序があることと、順序が容易に見えることは別だ——そういう話でもあります。物理の重さについては、数値を返すはかりが発明されて、この手間がまとめて消えました。抽象のほうには、それに当たる発明がまだ来ていません。
この語が物理的な量を離れて、話や空気や罪へ転用されるとき、真っ先に失われるのが「どの二つでも比べられる」という条件のほうです。重い話が二つ並んだとき、どちらがより重いかを決められないことは珍しくない。全順序を支えていた二つの条件のうち、推移律のほうは生き残りやすいのに、全比較可能性だけが真っ先に壊れる。この非対称は、言い換えれば、抽象的な重さには一つの尺度がないということです。尺度がないから、順位表は作れないのに序列の感覚だけは残る。
比較できない対がある集まりを、数学では半順序と呼びます。半順序では、最大という概念が二つに割れる。すべての要素より上にある要素を最大元と呼び、自分より上に誰もいない要素を極大元と呼ぶ。前者は存在しないことがあり、後者は複数あってかまいません。人が抱えている重い出来事を並べたときに起きているのは、まさにこれです。どれも他のどれかより軽いとは言えないのに、頂点が一つに定まらない。「いちばんつらかったこと」を答えられない人が誠実でないわけではなく、扱っている構造にそもそも最大元がないだけの場合がある。順位を付けさせようとする問いは、半順序の上で全順序を要求している。ただし半順序でも、範囲を狭めれば順番は戻ってきます。同じ人物の、同じ年の、同じ種類の損失に限れば、どちらが重かったかは言える。比較可能な範囲をどこで区切るかを決めることが、そのまま、何と何を並べて読者に見せるかを決めることになります。二つの出来事を同じ章に置くという操作は、それだけで「この二つは比べてよい」という宣言です。
もう一つ、転用によって失われるものがあります。加法性です。一キログラムの荷物を二つ重ねれば二キログラムになる。物理量としての重さは足し算という演算を備えており、この演算があるからこそ数値で表す意味がある。ところが罪や悲しみの重さは足せません。二人分の喪失が一人分のちょうど二倍になるとは誰も感じない。順序は残ったまま演算だけが消える、という構造の欠け方をしている。数を割り当てても意味のある計算ができない量を、統計では順序尺度として区別します。抽象の重さは、まさにその位置にあります。
加えて、知覚そのものが線形ではありません。刺激の違いを感じ取るには、もとの刺激の大きさに比例した差が必要だという経験則が古くから知られています。手に持った百グラムの品に十グラム足せば気づきますが、十キログラムの荷に十グラム足しても分かりません。物語の負荷にも同じことが起きます。すでに多くを失った人物にもう一つ喪失を積んでも、読者の体感はほとんど動かない。増分ではなく比が効くからです。逆に、何も失っていない状態からの小さな一つは、はっきりと重く感じられる。
だとすると、重さを作る操作は「足す」ではなく「基準を下げる」ことになります。分母を小さくしておいてから同じ分子を載せる。何気ない朝食の場面、意味のない会話、うまくいっている仕事——そういう軽い分母を先に置いた作品でだけ、後から来る一つの出来事が桁違いに響く。天秤の比喩に戻れば、片方の皿を空にしておくということです。重さは載せた物の中にあるのではなく、反対側の皿との差の中にしかありません。