頻度を数えるという作業は、たいてい最初の一歩でつまずきます。「かたい」がどれくらい使われているかを調べようとすると、固い・硬い・堅い、それに仮名書きの「かたい」が並ぶ。形態素解析器は表記から語を復元しますが、この三つは辞書の設計しだいで別々の見出しにも同じ見出しにもなります。つまり数え始める前に、何を一語と見なすかを人間が決めなければならない。数値はその決定のあとにしか現れません。
解析用の辞書は、この問題に一つの答えを用意しています。語を「語彙素」と「書字形」の二層で持ち、異なる表記を同じ語彙素の下にぶら下げる設計です。こうしておけば、語としての頻度も表記ごとの内訳も、同じ集計から取り出せる。よくできた仕組みですが、束ねる範囲を決めているのは辞書の編者であって、資料の側ではありません。三つを一つの語彙素にまとめるという判断そのものが、意味の重なりについての仮説です。仮説を辞書に埋め込んでから数えるので、出てきた数字はその仮説を検証してくれない。道具は、数える前の決定を隠す性質を持っています。仮名書きの「かたい」を同じ籠へ入れるかどうかも、同じ層の判断です。仮名で書かれた語は、書き手が三つのどれとも決めなかった痕跡でもあるのに、集計表の上ではどれか一つに吸収されるか、別の一項として立つかしかない。決めなかったという状態を保存できる欄が、そもそも用意されていません。
常用漢字表は、固・硬・堅のいずれにも訓「かた-い」を認めています。書き分けは制度が要求したものではなく、意味の使い分けとして運用されてきたものです。硬は物理的な変形しにくさ、固は結びつきの強さ、堅は中身が詰まっていること——こうした説明は各種の用字用語集に見られますが、実際の文章では境界が滑ります。固い意志、硬い表情、堅い商売。三つ並べると、どれも比喩で、どれも物理的な硬さから離れている。書き分けの基準が物理側にあるのに、使用の中心は比喩側にある、という捻れがあります。
対のほうを見ると、この不揃いはもっと具体的に出ます。三字に「かた-い」が認められているのに対し、反対側の「やわらかい」に当てられるのは柔と軟の二字です。三対二で数が合わないので、書き分けを対で覚えることができない。硬いの反対は軟らかい、固いの反対は柔らかい、では堅いの反対は何か。ここで表が尽きます。書き分けの規則が対称でないという事実は、規則が意味の構造から導かれたのではなく、字のほうの事情から積み上がったことを示している。数える前につまずくのは、分類が言語の外側から来ているからです。さらに言えば、堅の側には「堅苦しい」「手堅い」のように複合語の形でしか生きていない用法があり、単独の形容詞として数えると取りこぼされます。語の在庫は、見出し語の数だけでは測れません。
計量の話に戻ります。共起する語を集めるという手はあります。前後一語ずつを取って集計すれば、物質を指す名詞の群と抽象名詞の群がある程度は分かれるはずです。ただしここでも表記の扱いが結果を決めてしまう。三表記を統合して数えれば「かたい」は幅の広い多義語に見え、分離して数えれば三つのほぼ単義の語に見える。どちらが正しいのか——これは資料が答えを持っている問いではなく、集計の設計の問いです。数字は設計を反映するだけで、設計を検証してはくれません。
自分の観察に異議を出しておきます。表記の選択は書き手の判断であって、無作為ではありません。校閲の入る媒体と入らない媒体では分布が変わり、時期によっても変わる。だからコーパスから出てくる比率は、日本語そのものの姿というより、その資料体の編集方針を含んだ姿です。ここに非対称があります。上位の少数の語が全体の大半を占め、あとに長い裾が続くという分布の形そのものは、資料体を替えてもかなり安定して現れる。一方で、個々の語の表記比率はまったく安定しない。全体の形は頑健で、細部は資料に依存する。数えたい対象が細部の側にあるとき、計量はいちばん苦しくなります。
書く側にとっての帰結は、意外に単純です。辞書が正解を持っていない以上、作品の中で一貫していることのほうが効く。ある人物の内面には「固い」を、物体には「硬い」を、と決めて通せば、読者はその区別を作品の規則として受け取ります。表記は正誤の問題である前に、作品内部の統計の問題だ、と考えると扱いやすくなります。数えられないのは資料の側の事情であって、書き手が自分の原稿を数えることは、いつでもできる。