六拍。「なきくずれる」を声に出すと、日本語の動詞としてはかなり長い部類に入ります。三拍や四拍の動詞が文の中を軽く流れていくのに対して、六拍の複合動詞は、そこで一度速度が落ちる。それだけのことのようですが、この語を文末に置いた段落が、たいてい段落として閉じてしまうのは、長さと無関係ではないはずです。まずはそう見当をつけて、確かめてみます。
長さで説明するなら、こうなります。文末に重い語が来ると、読者の音読上の呼吸が一度リセットされる。次の文を続けても前の文の余韻が長く尾を引くので、接続が悪い。だから書き手は自然と改行したくなる——という筋書きです。しかしこれは怪しい。「振り返る」も「歩き回る」も五拍から六拍あり、文末に置いても段落は閉じません。拍数だけでは説明がつかない。見当が外れたわけです。
もう少し見ていくと、後項動詞のほうが効いていると思えてきます。この複合動詞の後ろ半分は、姿勢が保てなくなることを表す自動詞です。立っていたものが立っていられなくなる。つまり動作の完了ではなく、状態の不可逆な変化を含んでいる。いったんそうなったら、元の姿勢には戻りません。次の文で人物を動かすには、まず起こさなければならない。段落が閉じるのは音の重さではなく、この語が場面の姿勢を全部使い切ってしまうからです。長さは結果であって、原因ではなかった。
統語上の居場所を数えても、同じ結論に寄っていきます。この語は、ほとんど文末の述語としてしか現れません。連体修飾に回すと座りが悪くなる——「泣き崩れる母を残して家を出た」は書けなくはないものの、読むとどこかで引っかかります。同じ複合動詞でも「泣き出す」なら「泣き出す子をあやす」で抵抗がなく、「泣きやむ」も「泣きやんだ子の顔」で自然に収まる。後項が姿勢の崩壊そのものを表す語は、修飾語の位置に置かれると崩壊が背景へ落ちてしまい、文の主眼から外れるからでしょう。述語の席でしか働けない語は、一文につき一つしか置けません。文の骨格を丸ごと占有するからです。そして一つの段落が持つ述語の席は、思っているほど多くない。ついでに言えば、後項に「崩れる」を取る複合動詞そのものが数えるほどしかありません。泣き崩れる、笑い崩れる、それに前後を入れ替えた崩れ落ちる。前項に立てるのは、姿勢を保てなくなるほどの出力を伴う動詞に限られていて、感情の表出へ強く偏っています。語彙の在庫が薄いということは、代替が利かないということでもある。
原稿の見た目からも、もう一つ言えることがあります。一文あたりの情報量が高い語を置くと、その前後の文の長さが引きずられる。書き上がった原稿を眺めていくと、この語を含む文の直前には短い文が並びやすい。顔を上げた。何も言わなかった。そう刻んだあとで、長い語がまとめて受け取る。逆に、直前を長い修飾で飾ってから置くと、文全体が飽和して読み手が処理を諦めます。語彙密度は一文の中で平坦であるより、山を作ったほうが読まれるようです。ただしこれは経験的な感触であって、計測した数値ではありません。
推敲に使える数え方も、ここから一つ出てきます。一章を書き終えたら、各段落の最終文の述語だけを縦に抜き出して並べてみる。言った、見た、頷いた、戸を閉めた。そういう平坦な列のなかに姿勢を崩す語が二つ三つ混じっていれば、その章の起伏はそこで作られていることになります。逆に、抜き出した列が最初から最後まで重い語で埋まっていたら、どれも効いていない。段落の末尾は一章あたり十数個しかない希少な席で、そこに何を座らせるかは、一文の中の語順を考えるより先に決めておいてよい問題です。ここで数えているのは字数でも頻度でもなく、席の数のほうになります。同じ手つきで、章の冒頭一文の述語だけを並べてみるのも有効です。末尾に重い語を集める癖のある書き手は、たいてい冒頭に軽い語を置きすぎている。
分布についてもう一つ。この語は頻度の低い語です。頻度の低い語は一度使われると読者の記憶に残りやすく、二度目の出現で必ず前回を呼び出します。一回目は情報として、二回目は反復として読まれる。長編で同じ人物に二度使えば、読者は無意識にその二つを比較し、どちらかが軽く見えてしまう。頻度の高い語——「泣いた」「うつむいた」——には、この副作用がありません。使い減りするのは、珍しい語のほうです。だから配分の問題になります。一作品に何度使えるかを先に決めておく。三回使う予定なら、一回目より二回目、二回目より三回目が重くなるように、周囲の文長と語彙密度をあらかじめ設計しておく。語の選択は一箇所で下す判断ではなく、作品全体にわたる予算の割り振りです。