程度を表す連体句は、しばしば数直線上の位置取りとして読める。「ほど」は比較の基準点を導入し、「なる」は状態変化の方向を示し、「たい」は主体の傾きを示す。全体として、刺激の強さがある閾値に近づいている、という不等式の語り口になる。等号に達したかどうかは明示されない。達していないから「泣いた」ではなく「泣きたくなる」で止まり、達しそうな近さが修辞の本体になる。近さの表現である点が、完成した涙の記述との差だ。差を消して実際に泣かせると、句の仕事は終わる。終わった句を残すと、勾配と到達が重複する。
閾値モデルで便利なのは、個人差を自然に扱える点だ。同じ出来事でも閾値が高い人物と低い人物がいる。語り手がこの句を使うとき、読者に共有されるのは出来事の絶対値より、語り手内部の閾値との距離である。距離が近いほど共感が起きやすく、遠すぎると大げさに聞こえる。創作では、その人物の涙の出やすさを事前に示しておくと、この程度表現が較正される。較正なしの「ほど」は、作者の感傷の目盛りに見える。目盛りが作者のものであると気づかれた瞬間、没入は薄れる。没入が薄れると、程度語はただの強調符になる。
上限と下限の話にもなる。嬉しい、悲しい、痛い、美しい——右辺に来る形容が変わると、同じ閾値語がまったく別の領域を測る。領域が混在すると、尺度が壊れる。一場面で測る軸は一つに絞る方が、不等式として健全だ。健全さは冷たさではない。軸が一本だと、読者はどの方向への超過かを誤読しにくい。誤読を意図するアイロニーは別だが、その場合も軸を一度見せてからずらす必要がある。ずらす前の軸がないアイロニーは、ただの矛盾に見える。矛盾は技法にもなるが、設計が要る。
順序の型についても、ひとこと要る。数直線に載せるという比喩は、任意の二つの刺激が必ず比較できることを前提にしている。実際の感情はそこまで素直ではない。ある喪失と別の喜びのどちらが強いかは、しばしば決められない。数学ではこうした順序を半順序と呼び、比較できない対が存在することを最初から認めている。「ほど」を使う表現が息苦しくなるのは、半順序で足りる場面に全順序を持ち込んだときだ。あらゆる感情を一本の目盛りへ並べようとすると、本来比較できないものまで無理に序列化することになる。比較しないと決めるのも設計のうちで、その場合は程度語を使わず、二つを並置したまま置く方が正確になる。
連続量と離散の対比も使える。涙が一滴落ちるのは離散イベントだが、この句はイベント前の連続的な接近を描く。接近だけを書いてイベントを書かない選択は、余白を残す技法になる。逆にイベントまで書くなら、この句は前段の勾配として機能し、本丸の動詞と役割が重複しないよう、どちらかを薄くする。勾配と到達を両方くどく書くと、曲線が二度描かれる。二度描きは読者を疲れさせ、ピークの形を潰す。形が潰れたピークは、強いはずなのに印象に残らない。
数学の比喩は、感情を数式に閉じ込めるためではなく、程度語の設計を意識化するためにある。閾値・距離・軸・勾配——四つを雑にでも決めてからこの連体句を置くと、賛辞や感傷の自動販売機から外れる。外れた一文は、測っている対象がはっきりしている。対象がはっきりしていれば、数値を出さなくても精度は上がる。精度が上がると、同じ句でも場面ごとに違う仕事ができる。