英語訳の一つは、she began to wet his feet with her tears と訳しています。福音書のよく知られた場面で、ある女性がイエスの足元に泣き伏し、髪でそれを拭ったと語られる箇所です。日本語にすれば「涙で足を濡らし」となり、構造はほとんどそのまま移ります。主語は人、涙は道具、濡れる対象は目的語。ところが、この言い方が英語圏の日常語として生きているかというと、そうでもない。wet ... with tears は聖書的な響きを帯びた表現で、現代の小説で人物が泣く場面にはまず現れません。同じ構造が、一方では古い引用の中に閉じ込められ、一方では今日も使える型として残っている。翻訳の摩擦は、たいていこういう非対称のところで起きます。
現代英語で泣く場面を書くとき、選ばれやすいのは涙のほうを主語に立てる型です。Tears streamed down her face. Tears welled up in his eyes. 涙が動作主になり、人は場所として扱われる。日本語にも「涙が頬を伝った」という同型の言い方があるので、ここまでは対応がつきます。分岐が起きるのは、濡れる対象が身体の外にあるときです。枕、袖、手紙、写真——日本語はこれらを堂々と目的語に据えて「枕を濡らす」と言えますが、英語で soak the pillow with tears と書くと量の話に見えてしまう。日本語のこの動詞が述べているのは量ではなく、そこに涙が到達したという事実だけです。
動詞そのものの作りも見ておきます。濡れる、と、濡らす、は自動詞と他動詞の対をなし、語尾の交替だけで責任の所在が入れ替わります。英語の wet は同じ形のまま自動詞にも他動詞にも使えるため、この交替が形に現れません。日本語で書く側は、書くたびにどちらかを選ばされる。選ばされるということは、選択が意味を持つということでもあります。誰の行為として記述するのかを、助動詞でも副詞でもなく動詞の語尾一つで決めている言語だと考えると、この対の存在は軽くない。
この型の背後には、和歌の伝統が濃く影を落としています。袖で顔を覆い、袖で涙を押さえるという所作が広く共有されていたため、袖を濡らす、袖を絞る、といった言い方が泣くことの換喩として定着しました。絞れるほど濡れた袖という誇張が、泣いた量ではなく泣いた時間の長さを示す。所作が共有されている社会の内側では、これは説明を要しない省略です。ところが記憶を持たない言語へ持っていくと、換喩の足場が抜け落ちます。wring one's sleeve と直訳しても、読み手は袖を絞る動機にたどり着けない。訳しにくさの正体は語彙ではありません——失われるのは、身体の使い方の記憶のほうです。
書く側にとって実際的なのは、この構文が主語の選択によって視点を切り替えられる点です。人を主語にして「枕を濡らした」と書けば、その行為を本人が認識していることになる。涙を主語にして「涙が枕を濡らした」と書けば、本人の意識の外で起きた出来事になります。英語ではこの切り替えが自動詞と受動態の選択に化けてしまうため、翻訳ではどちらかが必ず削られる。裏を返せば、日本語で書いている間は、二つを取り違えないだけで人物の自覚の度合いを一行で調整できます。濡れたものを誰が見ているのか。それを決めてから動詞を選ぶ順序が、この表現ではよく効きます。