泣く

【なく】動詞

使い分けの視点

音で聞かせる語(むせぶ、しゃくり上げる)と、涙そのものに触れる語(涙を流す、頬を濡らす)が揃っています。この動詞は、描写の前に置けば宣言になり、あとに置けば確認になります。感情語を避けて肩の動きや声のかすれだけを書くときにも、この語群が代わりを務めます。

同義語

同品詞の類義語

むせぶ文芸的
しゃくり上げる
咽ぶ文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

涙を流す
目を潤ませる
頬を濡らす文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

雨のような
堰を切ったような
子供のような

副詞的言い換え

情態副詞・形容詞の副詞的変換

しくしくとcolloquial
さめざめと文芸的
ほろほろと文芸的

体言的言い換え

用言を体言に変換

涙
慟哭文芸的
咽び文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

目を腫らす
声を詰まらせる
肩を震わせる

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

泣かせるエッセイ関連

例文: その芝居は幕切れで客を泣かせるためだけに、三時間も伏線を敷いた。

泣けるエッセイ関連

例文: 口コミにはただ「泣ける」の三文字だけが並び、理由は誰にも書かれていなかった。

啼くエッセイ関連

例文: 昔語りのように、山の鳥が啼くところからその手記は始まる。

描写の前に置くか、あとに置くか

明治の小説を続けて読んでいると、登場人物がよく泣きます。現代のウェブ小説を読んだあとだと、その頻度の差が気になる。ただしこれは印象であって、数えたわけではありません。印象のまま先へ進むのは危ないので、少し角度を変えることにします。どれだけ多いのかではなく、この動詞が地の文でどう扱われてきたか、という角度です。

文語の時代、この語は単独で立つことができました。和歌でも軍記でも、人が泣いたと書けばそれで場面が成立する。感情の説明を必要としないのは、泣くという行為が定型のなかに置かれていたからです。誰がどういう場面で泣くかが読み手と共有されていれば、動詞一語で十分な情報量になる。言文一致の運動——二葉亭四迷の『浮雲』がよく引かれます——を経て地の文が話し言葉に近づくと、この一語がむき出しになりました。定型の支えを失った動詞は、単独では薄い。読者はその三文字だけを渡されても、何も受け取れなくなった。

ここで、素直な結論に行きたくなります。だから近代以降の作家は「泣いた」と書かなくなり、身体の細部で置き換えるようになった、と。実際そういう方向はあります。肩の動き、声のかすれ、顔を伏せる角度。感情語を避けて兆候だけを書く技法は、いまも創作の指南で繰り返し推奨されています。しかし読み返すと、そう単純でもない。近代の小説にも、この三文字はふつうに出てきます。避けられたのではなく、置かれる位置が変わった。長い描写に取って代わったわけではありません。そのあとに、確認のように置かれるようになりました。

見落としていた側面もあります。この動詞には他動詞化された形があり、涙を引き出す行為のほうを指せる。「泣かせる」という言い方が、大衆的な演劇や小説の批評語として長く使われてきたことは、「お涙頂戴」という慣用句が残っていることからも分かります。作品の側が読者を泣かせにかかっている、という視線です。近年では可能形が形容詞のように使われ、「泣ける」作品という言い方が定着しました。動詞が受け手の側へ回り込んで、作品の属性の名前になったわけです。同じ語が、人物の行為から作品の効能へと移動している。

表記のことも一度考えておく必要があります。この語には泣・鳴・啼という三つの漢字があり、かつては人にも啼の字が使われました。現在の書き分けは、人は泣、鳥獣は鳴、というふうにほぼ固定しています。表記が固定したということは、選択肢が消えたということでもある。いま「啼いた」と書けば、それだけで文体が古びるか、意図的な擬古として読まれる。書き手が手にできる調整幅は、この百年ほどで確実に狭くなりました。

そうやって並べてみると、残るのは頻度でも表記でもなく、位置の問題です。この三文字をどこに置くか。描写の前に置けば宣言になり、あとに置けば承認になる。前に置かれた場合、読者は続く描写を「泣いている状態の説明」として読みます。後ろに置かれた場合は、自分がすでに読み取ったものに名前が与えられたと感じる。同じ一語が、置き場所によって読者の作業の順番を入れ替えている。明治の小説で目立つのは、たぶん頻度そのものより、前に置かれた回数のほうです。

文: hakadoru.ai 編集部

エディタで直接置換して執筆を加速

SaaS エディタではシソーラスの結果をワンクリックで本文に反映できます

無料で始める →