潮は必ず戻ってきます。半日ほどで満ちてくる。それなのに、この比況を使って人影が消える場面を書くと、戻ってくる感触はまるで出てきません。喩えに使った側の性質のうち、はっきりと外されているものがある——周期性です。何が写され、何が捨てられているのかを、順に確かめてみます。
比喩の意味は、源になった事物の性質の総和ではありません。一部だけが選ばれて写される。この句が持ちうる特徴を並べると、速度、一斉さ、境界が後退していくこと、音が遠のくこと、あとに濡れた砂が残ること、そして周期性。日常の使い方で前に出てくるのは、たいてい最初の三つか四つで、周期性は落ちています。落ちる理由はおそらく単純で、この句が主に消失の場面で使われるからでしょう。戻ってくる話をしたい書き手は、そもそもこの形を選ばない。
外されているのは周期性だけではありません。規模も落ちています。この句は、去っていくものの大きさを何も指定しない。数人が席を立つ場面にも、広場から群衆が消える場面にも、同じように使えます。源の側では波の高さがおおよそ決まっているのに、その情報は渡らない。時間の長さも同様で、潮の周期は半日ですが、比喩が写す退去はたいてい数秒から数分です。ただし、何でも通すわけではない。主語の側には制限が残っています。熱、音、人波、痛み、客足——量として測れるものには掛かるのに、一人の人物の退出には掛からない。彼が波が引くように立ち去った、と書けば、どこかがずれます。一斉さという特徴が写されている以上、写される側にも複数性か連続量が要るからです。規模と時間は写されないのに、量であるという条件だけは写される。何が渡り、何が渡らないかは、思ったより細かく決まっています。
述語の側にも同じ絞り込みが起きています。線を引く、風邪を引く、身を引く、辞書を引く。この動詞は広い多義を抱えていて、力を加えて手前へ移動させる他動詞の用法が中核にあります。ところが潮の場合、引いている主体は水そのもので、誰かが引っ張っているわけではない。中核の意味からいえば周辺に位置する枝を、この句は選んで固定しています。多義語の中でどの枝が呼び出されるかは、主語が何であるかでほぼ決まる。水を主語に立てた瞬間、手前へ引き寄せる力の像は消え、面が後退していく像だけが残ります。
ここで自分の整理に疑いが差します。焦点を決めているのは句のほうなのか、それとも共起する語のほうなのか。熱が下がる場面に置けば、選ばれているのは連続性と速度です。客足が減る場面なら、一斉さは消えて漸減のほうが前へ出る。静まる場面では音の減衰が主役になります。同じ句が、隣に来た動詞に応じて別の特徴を差し出している。だとすればこの句の意味は、あらかじめ複数に分かれているのではない。多義というより未指定——空欄を持ったまま置かれていて、動詞が来た時点で埋まる状態——だと考えたほうが、振る舞いをうまく説明できます。
反対向きの言い方と並べると、語彙の分業も見えてきます。満ちてくる側を書くとき、日本語はこの形をあまり取りません。押し寄せる、という複合動詞のほうが先に出てきます。歓声が押し寄せる、人が押し寄せる。動詞が一語で引き受けているので、比況の枠を組む必要がない。退く側にはそれに当たる一語がなく、だから句のほうが定型になったのでしょう。同じ現象の行きと帰りで、担当する品詞が違っている。この非対称は、書くときの選択肢の数にそのまま響きます。寄せてくる場面には動詞の候補がいくつも並びますが、退いていく場面では、まずこの形が思い浮かぶ。思い浮かびやすいものは、たいてい先に摩耗しています。退去の場面でこの句を避けたい書き手は、自分で候補を作るところから始めるしかありません。
では周期性は完全に消えているのか。ここは断定できません。ただ、同じ場面を「灯が消えるように」と書き換えると手触りが変わることは、その場で確かめられます。灯は自分では戻ってこない。波は戻る。選ばなかったはずの性質が、選択肢との差として効いている。写像から外された特徴は、意味の外へ捨てられるのではなく、他の候補と比べたときの位置として残っているらしい。取り返しのつかない喪失を書く場面にこの句を置くと、意図よりわずかに柔らかくなる。逆に、一時的な後退や、また来ることを読者に予感させたい場面でこそ効く。捨てたものの一覧のほうが、結局その句の輪郭を決めています。