分解すると三つの部品でできています。絡む、つく、ように。一つ目の「絡」は糸偏の字で、右側の「各」は音を示す部分とされます。「各」を部品に持つ字は多く、落や洛や酪はラクという音をこの字と共有しています。もっとも格や路のように音の離れたものもあるので、部品が同じだから意味も同じ系統だ、と短絡はできません。この字の場合は糸偏のほうが系統を決めていて、糸を巡らせる、糸筋がつながるという領域に属し、「連絡」「脈絡」のようにつながりを言う熟語にも顔を出す。連絡は望ましいつながりで、絡まるは望ましくないつながりです。もつれと連なりが、同じ字の左右に同居している。この時点で、この語がなぜ肯定にも否定にも振れるのか、その理由の半分は見えてきます。
和語の側を見ると、この語根は自他の三つ組を持っています。からまる、からめる、からむ。糸が絡まる、腕を絡める、蔦が絡む。自分から巻くこともあれば、巻かれることもあり、どちらとも決めずに関わることもある。近くには「絡げる」があり、裾をからげる、荷をからげる、と括り上げる動作を指します。手偏を使う「搦」の「搦め手」は城の裏門を指す語ですが、もとは捕らえる側の動きの名でした。この一族に共通しているのは一つの形です——線状のものが対象を巡り、離れなくする。
原義から遠ざかった用法も、同じ語根はいくつか抱えています。利害が絡む、事情が絡む、という言い方に、巻きつく実体はどこにもありません。複数のものが分けられなくなっているという部分だけが残り、線であることも、対象の周りを回ることも落ちている。人に絡む、と言うときはまた別の成分が残ります。こちらは離れないという性質を引き継いだうえで、相手にとって迷惑であるという評価まで背負い込んだ。糸で操る仕掛けを絡繰りと書く習慣も加えれば、機構へ、関係へ、迷惑へ——行き先はかなり広く散らばっています。原義のどの部分を持ち出すかで、同じ語根がこれだけ別の場所に着地する。
二つ目の部品が効きます。複合動詞の後項は、しばしば動作の時間の形を担う。「絡む」だけなら一度巻けば済みますが、「つく」が加わると接触が続く状態まで含みます。しがみつく、まとわりつく、へばりつく、凍りつく、焼きつく。「つく」で終わる複合動詞の多くは、離れなくなった後の状態まで一語で述べる型を作っている。つまり「絡みつく」は動作の描写であると同時に、そのあとの状態の宣言でもあります。一語で二つの時間を抱えていて、だからこの語を使った文の次の行は、すでに絡まった後の世界から始めなければならない。
三つ目の部品にも来歴があります。「よう」は漢字を当てれば「様」で、もとは姿や形を指す名詞でした。訓では「さま」と読む、あの字です。形あるものの見え方を言う語が、しだいに実体を離れ、別のものの見え方を借りてくるための形式へ移っていった。だからこの句が渡しているのは、巻きつくという出来事そのものではなく、巻きついているものの姿のほうです。実際の糸や蔦は文のどこにいなくてもよく、姿だけが持ち出される。三つの部品は、それぞれ別の層を担当していることになります。一つ目が線の運動を、二つ目がそのあとに続く状態を、三つ目がその全体を姿として貸し出す手続きを引き受けている。
ここまで書いて、この語が使いやすすぎることに気づきます。絡みつくような視線、絡みつくような声、絡みつくような湿気。どれもすぐ書けて、すぐ古びる。ただ、手垢がついたのは語そのものではなく、組み合わせのほうです。視線・声・湿気という定番の主語を外してみると、この比況はまだ働く余地を残している。使い古された比喩を捨てる前に、古いのが語なのか相方なのかを分けておきたい。語ごと禁じてしまうと、語彙は減る一方で、代わりに増えるのは説明的な長い文です。
原義の三条件に戻ると判断が早くなります。線状であること、対象の形に沿って巻くこと、離れなくすること。このうち少なくとも二つが具体的に見えているなら、比況として成立します。見えていないなら、書き手はただ離れないと言いたいだけで、そのときは「まとわりつく」でも「離れない」でも足りる。逆に三つとも見えているなら、比喩をやめて実物を書けばいい。蔦でも紐でも髪でも、実際に巻きついているものを一つ置いたほうが早い。比喩を選ぶという作業は、半分は、絵が本当に見えているかどうかを自分に確認する作業です。