森のような書棚、と書く。書棚は森ではありません。事実として偽の文を差し出しているのに、誰も嘘をつかれたとは思わない。この免除がどこから来ているのかを考え始めると、思ったより奥に入っていきます。比喩は真偽の問題ではない、という説明はよく見かけますが、それでは説明を放棄しているのと変わらない。真でも偽でもないものを、読者はどうやって処理しているのか。
手がかりのひとつは、この形式が対称でないことです。類似という関係そのものは、数学的には対称です。A が B に似ているなら B も A に似ている。ところが日本語のこの形式は、向きを入れ替えると壊れる。書棚のような森、と言い直したとたん、別の主張になってしまう。心理学の実験でも、似ているかどうかの判断が向きによって強さを変えることが指摘されています。つまりこの形式は、対称な関係を非対称な形に押し込む装置で、押し込むときに、どちらを説明される側に置くかを決めている。
もうひとつは、含みの所在です。この一語がどんな性質を渡しているのかは、文の中に書かれていません。高さ、密度、暗さ、見通しの悪さ、あるいは手入れされていないこと。候補は多く、どれを選ぶかは読者に委ねられます。真理条件が読者の側にある——これは論理の道具としてはかなり不安定な状態です。里山を思い浮かべる読者と、常緑の樹海を思い浮かべる読者では、同じ一文から取り出す性質が違う。候補が複数あること自体は欠陥ではありません。欠陥になるのは、書き手がどれを渡したつもりなのかを自分でも決めていない場合だけです。
渡せる性質が多いといっても、無制限ではない。ここで効いてくるのは、比喩の受け皿になっている名詞が集合を名指す語だという点です。森は木の集まりをひとつのものとして呼ぶ語で、内部に多数の要素があることを最初から含んでいる。だから移されるのは単体の性質ではなく、要素が多数あることから生じる性質——密度、見通しの悪さ、端がどこにあるか分からないこと——に偏ります。同じ形式でも、山のような書類、と書けば渡るのは量であり、海のような、なら渡るのは広がりです。書棚がこの一語を受け取れたのは、本という数えられる要素を内側に抱えていたからで、要素を持たない対象へ差し出しても比喩は空回りします。部分と全体の関係が語の内側に畳み込まれていることは、木を見て森を見ず、という古い言い回しが証拠になる。この形式は、性質だけでなく、その入れ子の構造ごと相手へ移している。
ここで自分の観察に異議を出しておきます。論理の枠で比喩を測るのは、そもそも筋違いではないか。おそらく半分は当たっています。ただ、否定形にしてみると、枠のほうが役に立つ場面があります。森のようではない書棚、と書いたとき、否定されているのは何か。書棚が森に似ていないことなのか、それとも書棚が森に似ていると言った誰かの見立てなのか。否定の作用域が定まらない。作用域の曖昧さは比喩に限った現象ではなく、否定文が一般に抱える性質でもありますが、普通の文なら前後の文脈が読みを一つに絞ってくれます。この形式では、絞るための材料が文の中に置かれていない。定まらないというその事実自体が、これが主張ではなく手続きだということを示しています。
さらに「まるで」を足して「かのような」まで持っていくと、反実仮想の目印が明示されます。事実に反することを承知のうえで、そう見なす。承知していると宣言する分だけ、書き手の姿が文面に出てきます。だから多用すると、語りが解説くさくなる。近い位置にある形式と並べると、役割の切り分けはもっとはっきりします。同じ名詞に「らしい」を付けた森らしい森は、似ているかどうかではなく、典型にどれだけ適っているかを測る言い方です。似ていることを言う形式と、典型に適っていることを言う形式は、別々に用意されている。増えるのは一語ですが、その一語は語り手の立ち位置を指す標識として働く。直喩を裸で置くか、反実の標識を付けるかは、語り手をどれだけ画面に出すかの選択でもある。
実務に落とすと、この形式の仕事は描写することではなく、選択肢を潰すことだと考えたほうが精度が上がります。読者はすでに書棚を思い浮かべている。そこへ一語を投げて、明るく整然とした書棚という候補を消す。消せた数が効果です。逆に言えば、几帳面に整理された部屋だと前のページで書いてあれば、この一語で消せる候補はもう残っていない。何も消さない直喩は、正しくても働いていない。