ある言い回しが手垢にまみれているかどうかを、感覚以外の方法で測れないか。計量的な言語研究には、こういう問いの立て方があります。手がかりのひとつは予測可能性です。文を途中まで読んだ時点で、次に来る語の候補がどれくらい絞り込めるか。候補が一つに収束するなら、その連なりは読者に新しい情報をほとんど渡していません。情報量とは驚きの量である、という情報理論の考え方を、そのまま文章に当ててみるやり方です。
この句を前から順に削っていくと、収束の位置がはっきりします。冒頭の一語だけでは、後続の候補は広い。経つ、来る、癒す、解決する、満ちる——どれも自然に続きます。ところが「止まった」まで到達すると、次は「ように」か「かのように」でほぼ決まってしまう。連なりの後半に入った時点で、読者はもう読んでいないに等しい。直前の二語か三語を見れば残りが言い当てられる並びは、書き手の側でも何も選んでいない並びだということです。
主語の側を替えてみると、収束の仕組みがもう少し見えます。時計が止まる、と書けば話は装置の故障になる。時間が止まる、では計測される量の話になり、単位や数値の匂いが残る。経過そのものが止まったと言えるのは、単位を持たない古い和語を主語に据えたときだけです。停止を表す言い回しがいくつも作られながら、この主語だけが残ったのは偶然ではないでしょう。裏を返せば、主語を替える余地はほとんど無く、書き手が動かせるのは述語と、その周りに置く物のほうになります。
ただし、予測可能性の高さが常に欠点かというと、そうではありません。読者は一定の速度で処理しているのではなく、引っかかるたびに減速します。頻度の高い型は処理の負荷が低く、視線が滑る。つまり常套句は、そこを速く通過させたい区間では正しい道具です。移動、事件の後始末、章と章のつなぎ——注意を使わせたくない場所に、あえて手垢のついた型を置く判断はありえます。分布の上位を全部避けようとすると、文章はどこも均等に重くなり、山がなくなる。加えて連載の規模が問題になります。百話を超える作品では、同じ型の再出現そのものが読者の目に留まる。一作の中での自己反復は、世間一般の頻度より遥かに小さい回数で摩耗します。
結びつきの強さは、片方が出た瞬間にもう片方が自動的に呼び出されるかどうかで測れます。この句の内部は、その自動化がほぼ完成した状態です。実作で効くのは、この自動化された結合を全部壊すことではなく、一箇所だけ緩めることです。前半の名詞を保ったまま述語をずらす、あるいは述語を保って主体を人以外に移す。読者の予測が最後の一歩で外れると、句全体が生き返ることがあります。
具体的にはこうなります。停止という述語を捨てず、止まる主体を場面の中の物へ移す——壁の時計ではなく、天井から落ちかけた水滴に。あるいは述語を「止まった」から「遅れた」へ一段ずらす。どちらも大きな発明ではありませんが、予測が収束する位置を一語分だけ後ろへ押し出せます。手垢のついた型を避けるより、収束点をどこに置くかを決めるほうが、実務としては扱いやすい。数えることの効用は、直しどころの座標を教えてくれる点にあります。