【とき】名詞

使い分けの視点

「時」は一点・機会・経過を広く担います。「刻」は切迫した一点、「折」は出来事に結びつく機会、「年月」や「歳月の河」は長い経過を示します。場面転換では、時計の外から区切るのか、人物の記憶の内側から過去を呼ぶのかを選ぶと明確です。

同義語

同品詞の類義語

文芸的
文芸的
頃合い
年月文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

機の熟す頃文芸的
針の進む先文芸的

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

川の流れのような文芸的
砂時計の粒のような文芸的
息のような文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

針が刻む間隔
過ぎ去るもの文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

歳月の河文芸的
過ぎゆくもの文芸的
砂の如きもの文芸的

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

語りの層を跳ぶ合図エッセイ関連

例文: 「その時」は語りの層を跳ぶ合図となり、老女の現在から五十年前の夏へ読者を運んだ。

文語が手放した荷物——近代小説はどこで時間を示したか

二葉亭四迷が『浮雲』の第一編を世に出したのは、明治二十年、一八八七年でした。言文一致という試みが最初にぶつかった壁は、文の末尾にあります。文語の「き」「けり」「つ」「ぬ」「たり」は、出来事が語りのどの層に属するかを、助動詞それ自体で示していました。口語へ移した瞬間、その働きは「た」と「る」という二枚の札に圧縮されます。近代の語り手は、失われた分をどこかで補わなければならなくなった。補填先のひとつが、名詞のほうの「とき」でした。

古典語では、この語は単独で立つより連体修飾節を受けて働くことが多い。「〜し時」「〜なる時」という形で、二つの出来事の前後関係を組み立てる蝶番として使われます。焦点は時刻の指定ではなく、節と節の接続にあった。ところが近代小説になると、「そのとき」「あのとき」という指示詞つきの形が、単独で文頭に立つようになります。接続の部品ではなく、語りの平面をいったん切って別の層へ跳ぶための合図になった——同じ語が、文法の道具から演出の道具へ移ったわけです。

言文一致がすぐに全面化したわけではありません。樋口一葉が『たけくらべ』を発表したのは一八九五年から翌年にかけてで、地の文は雅俗折衷と呼ばれる文語寄りの調子、会話は生きた口語という組み合わせで書かれています。読者は一つの場面の中で、助動詞が経過を担う層と、語彙が経過を担う層とを行き来することになる。過渡期の文体は不完全な妥協に見えますが、二つの体系が並走している分、経過の示し方の手札はむしろ多かったとも言えます。どちらか一方へ統一された時点で、失われた表現力もあったはずです。

夏目漱石『こころ』の後半、先生の遺書は全体が回想として書かれています。回想体の語りでは、書いている現在、書かれている過去、その過去のなかでさらに遡る過去という、少なくとも三つの層が重なる。読者に層を取り違えさせないため、語り手は目印を打ち続けなければなりません。「た」だけでは足りない。だから「あのとき」「その時分」といった名詞句が、痩せた時制体系の代わりに働くことになります。文法が失ったものを語彙が引き受けた、と言い換えてもいいでしょう。

表記にも痕跡が残っています。現代の書き手の多くは、時刻を指す場合は漢字、条件や場面を指す場合は仮名という使い分けを、ほとんど意識せずに行っています。「五時に着く」は漢字、「困ったときは」は仮名。新聞社や出版社の用字基準もおおむねこの線を採っています。同じ語が、実質的な意味を担う場合と、文の骨組みとして働く場合とで、見た目まで変わる。表記の揺れは乱れというより、機能の分裂が可視化されたものだと考えられます。

この分裂は、いまも連載小説の現場で使われ続けています。場面を跳ばすとき、書き手が本当に選んでいるのは接続詞ではありません。「三日後」と書くか、「あの雨がまだ屋根に残っていた」と書くかで、読者が立たされる層が変わる。前者は語りの外から日数を告げ、後者は語り手の記憶の内側に読者を連れ込む。文語の助動詞を手放した明治の書き手が代わりに手に入れたのは、この二択を意識的に行使できる自由でした。百年後の書き手も、章の切れ目ごとに同じ二択を引き受けています。

文: hakadoru.ai 編集部

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