笑い声が上がった直後の部屋は、少しだけ広くなったように感じられます。実際には壁も天井も動いていません。それでも、人が快の感覚を語ろうとするとき、口から出てくるのは決まって空間や天気や体の言葉です。心の中で起きている出来事を、心の言葉だけで述べることは案外できない。抽象的な状態は、より手触りのある経験の型を借りて初めて言葉になります。そして借りる型は話者ごとに気ままなわけではなく、驚くほど揃っている。同じ言語を使う人どうしが、感情について同じ喩えを共有しているという事実のほうが、個々の喩えの巧拙より重要です。
レイコフとジョンソンが一九八〇年に示した見取り図は、この借用が場当たりではなく体系をなしていることを指摘しました。日本語で確かめても同じことが言えます。上機嫌、気分が上がる、意気が揚がる、浮き浮きする。反対側には、沈む、落ち込む、へこむ、気が滅入る。快と不快が上下の軸に写されている。この軸は姿勢の経験に根ざしていると考えられており、実際、快の場面で背筋は伸び、視線は上がります。逆に消沈した人は、頭を垂れて視線を落とす。体の姿勢という誰にでも観察できる事実が先にあり、言葉がそれを追いかけた——順序としてはそう考えるのが自然でしょう。上下のメタファーに乗った文章は、自然と姿勢と視線の描写を呼び込みます。
ところが日本語には、もう一本べつの軸が太く走っています。天候です。気が晴れる、憂さを晴らす、心が曇る、鬱々とする。ここでは心が空として捉えられ、快とは覆いが取れた状態を指す。この語の周辺に集まる言い回しの多くは、この天候の軸に属しています。晴れるという語は、遮っていたものが消えることを含意します。つまり快が、何かの不在として定義されている。上下の軸が力の充実を語るのに対し、天候の軸は障害の除去を語る。同じ快でも、輸送されてくる論理が違うのです。前者では快は積み上がるもので、後者では快はもともとそこにあって、覆いが晴れると見えてくるもの。この違いは、人物が快へ至る道筋の書き方まで変えます。
違いは、近い語との使い分けにも現れます。つかえが取れる、溜飲が下がるといった表現と親しいのは「痛快」のほうで、こちらは直前に不快が存在していなければ成立しません。逆転劇や仇討ちの場面に「痛快」が来て、この語が来にくいのはそのためです。この語が指すのは、障害を前提としない持続的な状態のほう。だから宴席や旅の道中には収まり、決着の瞬間には収まりが悪い。メタファーの体系は、語の時間構造まで決めています。持続か一瞬か、前提を要するか要しないか——語の選択は、その場面がどれだけの長さを持つかの宣言でもあります。
三本目の軸は身体、それも腹です。腹を抱える、抱腹絶倒、へそで茶を沸かす。笑いの座が胸でも頭でもなく腹に置かれてきたことは、大きく笑ったときに実際に働くのが横隔膜まわりの筋肉だという事実と無関係ではないでしょう。書く側にとって実用的なのは、この三本を混ぜないことです。上下に乗せるなら姿勢と視線を、天候に乗せるなら光と空気の密度を、腹に乗せるなら呼吸と筋肉の緊張を、それぞれ周囲の描写に揃える。一つの段落で三本を同時に走らせると、比喩どうしが干渉して場面の像がほどけます。どの空間で快を起こすかを先に決めておけば、後続の一文一文は自分の行き先を知っています。