声に出してみると、この語はさほど嫌な音をしていません。ふ・ゆ・か・い。四つの拍のどこにも濁音がなく、母音はウ・ウ・ア・イと途中でいったん開いて、最後は前寄りの狭い母音で軽く閉じる。語頭の子音は上下の唇をわずかに近づけて息を通すだけのもので、日本語の子音のなかでも摩擦が弱く、条件によっては母音が無声化して息だけが残ります。強く言おうとしても、音そのものが力まない。感情の名前としては、ずいぶん行儀のよい形をしている。
これが妙に思えるのは、近い意味を担う和語の一群がまるで違う音をしているからです。いらだたしい、わずらわしい、うっとうしい、しゃくにさわる、むなくそがわるい。濁音と促音が目立ち、拍数も長い。音象徴の研究では、清音と濁音の対立が大きさ・重さ・粗さといった印象差と結びつくという指摘が古くから重ねられてきました。その線でいけば、不快を名指す語は濁音を抱えやすい、という観察が立ちそうに見えます。
ところが少し例を集めるだけで崩れます。いや、つらい、にくい、かなしい、くるしい——どれも濁音がない。逆側を見れば、うれしい、たのしい、うつくしい、ほほえましい、これも濁音がない。清濁は快不快を分けていない。では先ほどの一群に濁音が多かったのは何だったのか。並べ直すと、それらはほとんどが身体や生理を名指す成分を含んでいます。胸、腹、癪、鬱、虫。濁音が不快を運んでいたのではなく、身体語のほうが濁音を含みやすかった。音と意味の対応に見えたものが、語彙の出自の偏りだったわけです。
そこで残るのは、出自の差そのものです。四拍のこの語は漢語で、二字漢語に否定の接頭辞がひとつ乗った構造をしている。同じ骨格の肯定形との差はたった一拍で、しかもその一拍が、いま見たとおり日本語でもっとも息に近い音でできている。否定という意味の重さと、それを担う音の軽さが釣り合っていない。打ち消しが音の上に現れないから、この語を口にしても感情の量は伝わらず、代わりにその感情がどの分類に属するかだけが伝わる。冷静さを装いたいときにこの語が選ばれるのは、話者が礼儀正しいからというより、音の作りがそうなっているからだと考えられます。
否定を担うその一字には、もう一つの読みがあります。後ろに来る語によっては、濁って読まれるのです。不細工、不用心、不作法、不器用。この一群は語頭に濁音を抱えたぶん、口語の悪態に近い位置へ落ちます。同じ字が同じ否定の役を果たしながら、清音で読まれるか濁音で読まれるかで、語の座る場所が変わる。清濁は快と不快を分けていない、と先に書きましたが、何も分けていないわけではありませんでした。分けているのは、書き言葉と口の悪さのあいだの距離のほうです。濁って読まれる側の語は、面と向かって使えば角が立ちます。清音のまま据わったこの語なら、改まった書面にも載せられる。四拍のこの語がずっと文章語の側に留まっているのは、その分岐で清音側へ振り分けられたからでもあります。
語の長さも効いています。日本語では、短縮された語が四拍に落ち着きやすいことがしばしば指摘されます。四拍というのは、語形として据わりのよい長さなのでしょう。この語もちょうどその長さに収まっていて、口に乗せるのに力が要りません。据わりがよいということは、考えずに出せるということでもある。腹の底から押し出す必要がないので、感情の高まりとは無関係に口から出てしまいます。音の作りが軽く、長さが手頃で、しかも意味のほうは否定を担っている——この三つが揃った語は、感情を報告するためではなく、感情をもう処理し終えたと示すために使えます。同じ四拍でも、和語の「うるさい」や「しつこい」なら口論の最中にも出せる。長さが同じでも、出どころが違えば出せる局面が違うわけです。
書く側にとっての帰結は、地の文と会話文で正反対になります。地の文に「不愉快だった」と置けば、人物は自分の感情に分類名を与えたことになり、四拍の漢語が文のリズムを平らに均してしまう。腹が立った、では収まらないものを扱いたいときにだけ使える札です。一方で会話に置くと、この平らさが効く。怒りを生の音で出さずに分類名で差し出す人物は、それだけで距離の取り方を語ってしまう。同じ怒りを、ある人物には濁音の多い和語で言わせ、別の人物にはこの四拍で言わせる。音の設計は、そのまま人物の設計になります。