引っかかるのは、「開ける」のほうを使わないことです。窓は開ける、箱も開ける、扉も蓋も開ける。それなのにこの目的語のときだけ、他動詞の「あける」が拒まれて、「ひらく」だけが残る。日本語には両方の動詞が揃っているのに、片方だけが選ばれ続けている。しかも例外がほとんどありません。心を開ける、と書かれた文はまず見かけず、見かけたとしても誤植のように読める。この選り好みは、比喩がどこから像を借りてきたのかを教えてくれる手がかりになります。
よくある説明は、容器のメタファーです。心は内と外を持つ入れ物として語られる。中に何かが「ある」、感情が「湧く」、本音が「漏れる」、逆に「閉ざす」「鍵をかける」。胸腔や内臓の感覚が、本来は輪郭を持たない対象に器の形を与えている、と認知言語学では説明されます。空間の経験を抽象の領域へ写す、という一般的な図式にもよく合う。壁を作る、距離を置く、垣根を取り払う。同じ図式で動く言い方なら、周りにいくらでも並んでいます。ここまでは納得できます。
容器説には、この言語に特有の細かさが加わります。心の在りかとして扱われる場所が一つではなく、胸と腹に分かれているからです。しかも二つは別々の操作を受け取ります。胸に付くのは、つかえる、すく、痛む、締めつけられる。出入りではなく圧力を測る語が集まります。腹に付くのは、割る、据える、探る、収める。こちらは容れ物としての扱いを受け、開閉や搬入出の語が並びます。胸に収める、と言えなくはありませんが、定型はやはり腹のほうです。切る系の語が腹だけに付くことも同じ傾向を裏づけていて、胸を割る、という言い方は日常にありません。日本語の内面は、圧力を報告する部屋と、物をしまう部屋の二部屋でできている。開くという操作がどちらの部屋へ向かうのかは、この時点ではまだ決まっていません。
しかし容器であるなら「開ける」で構わないはずです。ここで説明が足りなくなる。あける は道具的で瞬間的な動作で、外側から蓋や戸を取り除く操作を指す。対して ひらく は、花が、扉が、本が、傘がそうするように、面が展開していく動きを含んでいる。つまり借りられていたのは蓋つきの器ではなく、折り畳まれていたものが広がっていく像のほうだった——だから時間が要る。「開けた」は一瞬で終わるのに、「開いた」は経過を許す。途中まで開く、という言い方が成り立つのも、ひらく の側だけです。
反対語の側にも歪みがあります。開く の対は形式上「閉じる」のはずですが、実際に使われるのは「閉ざす」です。閉じるは自然に元へ戻る動きで、閉ざすは意志を持って塞ぐ動き。つまりこの領域では、開く側は展開の像、閉じる側は封鎖の像を借りていて、二つの動詞が同じ身体から取られていない。開くのに時間がかかり、閉ざすのは一瞬でできる、という非対称が語彙の側にあらかじめ書き込まれている。人物の関係が壊れる場面のほうが短く済むのは、物語の都合というより、使える語の形に従った結果でもあるのでしょう。使役形を作ってみると、非対称はもう一段はっきりします。窓を開けさせる、と言えば、その作業を誰かに代行させたことになる。ところが心を開かせる、のほうは、代行させたことになりません。できるのは条件を整えることだけで、展開そのものは相手の内側でしか起きない。借りてきた身体像は、動作の主体をどこに置くかまで決めています。
同じ出来事を指す言い方を並べると、身体像が一つでないことも見えてきます。胸襟を開くは衣服で、襟を緩めて隠していたものを晒す方向。腹を割るは切開で、閉じた身体を破って中身を出す方向。展開、脱衣、切開。同じ「打ち解ける」という出来事に、三つの異なる身体が割り当てられている。どれを選ぶかで、その出来事にかかる時間も、伴う痛みの量も変わってくる。衣服なら着直せますし、切開の跡は残ります。展開したものは、放っておけばまた折り畳まれる。語彙の選択に見えて、実際には場面の設計をしていることになる。
表に直せば、選択肢はこうなります。展開系を選んだなら、一度で終わらせず何場面かに分けたほうが像に合う。脱衣系なら、姿勢や服装、部屋の温度といった外側の描写と結びつけられる。切開系なら、開く側だけでなく聞く側にも痛みが及ぶ。出どころを意識せずに三つを混ぜると、同じ人物が一場面のうちに花になり、服になり、身体になる。読者はそれを矛盾としてではなく、輪郭のぼやけとして受け取ります。指摘されない失敗のほうが、直すのは遅れる。