「一年間、子どもたちが互いに心を通わせる場でありたいと思います」。学校だよりの巻頭、施設の広報紙、自治体のパンフレット。こういう一文を目にした記憶は、多くの人にあるはずです。その一方で、友人と飲みながら「昨日あいつと心を通わせてさ」と言う人には、まず出会わない。言われれば意味は分かります。文法的にもどこも壊れていない。それでも口にした瞬間、その場の空気が半歩ずれる。同じ日本語の中で、この表現には出てくる場所が決まっていて、場所が決まっている語は、意味とは別の情報を運びます。
語彙は意味のほかに位相という情報を帯びています。どの場面で、どんな立場の人が、どんな相手に向けて使うか。専門語と日常語の断層、方言と共通語の差、書き言葉と話し言葉の隔たり——位相はそのすべてを含みます。辞書の語釈にはほとんど書かれないのに、読者は一読で感知する。医療者が「疼痛」と書き、患者は「痛い」と言う。事故の調書が「本件事故」と呼ぶものを、当事者は「あの日」と呼ぶ。指しているものは同じで、話者の立ち位置だけが違う。教育や福祉や地域活動の文書圏に根を張った表現も事情は同じで、圏の外へ持ち出した途端に浮きます。
なぜその圏で定着したのかは、文書の側の事情から説明がつきます。制度的な文書は、具体的な関係を名指せません。誰と誰が仲良くなったか、とは書けない。名前を出せば、出されなかった名前のほうが問題になるからです。集団の全員に等しくかかる抽象語が要る。「仲良く」では幼い。「連帯」は硬い。「交流」は事務的で温度がない。ちょうどその中間に空席があって、そこへ収まった。加えてこの言い方は使役の形をとっています。自然に通じ合うのではなく、通わせる。努力する主体が想定されていて、その主体は書き手自身でも読み手でもありうる。教育の言葉として都合がよかったのだと考えられます。
同じ事態を指す表現が、責任の所在によって分かれるのも位相の一種です。「気持ちが通じ合う」は相互的で、誰の手柄でもない。「気心が知れる」は時間が作った結果を指し、努力の記述を含みません。「打ち解ける」は一方の緊張がほどける過程に焦点があり、ほどけた側が主語になる。「肝胆相照らす」まで行くと漢籍の圏へ入り、話者の教養と年代が一緒に運ばれてくる。時代がかった台詞回しなら「わしとおぬしも、ようやく心が通うたな」という形が成立します。指している事態はどれも近いのに、誰が何をしたことになるかが一つずつ違う。類義とは意味が同じことではなく、責任配分の異なる複数の記述が、同じ現実に貼れてしまうということです。
創作での扱いは、この住所の情報を使うか避けるかの二択になります。地の文で使えば、語り手は自動的に教師や記録者の位置に立ち、人物の関係を上から評定する声になる。台詞に置けば、その人物に属性が付きます。校長、施設長、悪意はないが定型でしか喋れない大人。使う人物と使わない人物を書き分けるだけで、二人の距離が出る。文化祭の翌日、教頭が報告書に「生徒間の相互理解が深まった」と書き、当の生徒は帰り道で「まあ、普通に喋った」としか言わない。同じ半日を指しているのに、二つの文は互いに翻訳できません。位相差の実用とは、この翻訳不能をそのまま場面へ変えることです。