主語の欄を見ると、この言い方の性質が早く分かります。打つのは、たいてい人ではない。物語が、音楽が、光景が、誰かの残した一言が打つ。ところが「彼は私の心を打った」と行為者を主語に据えると、比喩というより言い間違いに近い響きになる。人ではなく出来事や作品が主語の位置に来る動詞句で、この制限は文法の問題ではなく、意味の側から掛かっているように見えます。意図して打つことはできない、という含みが、主語の欄を狭めている。「打とうとして打った」という言い方が成り立たないことも、同じ制限の裏側でしょう。狙って当てられるものなら、当たったことに意味は生じません。
打つ の意味の広がりを追ってみます。釘を打つ、碁を打つ、電報を打つ、寝返りを打つ、そして心を打つ。中心にあるのは、勢いよく接触させるという動作でしょう。周辺へ行くほど接触の要素は薄れ、碁では石を置く音が、電報では打鍵の動作が名残として残る。放射状に広がったこのカテゴリーの端で、この言い方には何が残っているか。接触の勢いでも打撃音でもなく、一回きりであること——一撃性だけが残っています。
周辺のさらに外側では、この動詞は接触そのものを手放しています。相槌を打つ、終止符を打つ、先手を打つ、逃げを打つ。どれも何かを叩いてはいません。ここでの打つ は、一回の行為を実行するという意味だけを担う軽い動詞になっていて、内容は目的語の名詞が背負っています。日本語ではこうした役割の交代がよく起きます。動詞が意味を薄めて枠だけを提供し、名詞のほうが中身を入れる。ところがこの言い方は、そこまでは行きませんでした。目的語の側に衝撃の意味はなく、衝撃は依然として動詞の側にある。副詞の受け入れ方にも差が出ていて、じわじわ手を打つ、は場面さえ整えば通ります。制限がどこに残っているかを見れば、その用法がカテゴリーの中心寄りにいるか外側へ出たかを言い分けられる。
それは共起の制限として確かめられます。「じわじわ心を打つ」は据わりが悪い。「じわじわ響く」なら自然に読める。響く は反響で、時間の中で持続し、内部で共鳴する動詞です。打つ は瞬間の接触で、持続を表す副詞と噛み合わない。どの副詞を拒むかを調べると、その語の意味の芯がどこにあるかを外側から測れる。意味を内省だけで定義しようとすると水掛け論になりますが、共起の可否なら他人と共有できる観察になります。近い言い方を並べても、同じ線が引けます。琴線に触れるは接触の量が小さく、胸に迫るは接近だけで接触に達しない。胸を突くはこの言い方に近いのに、当たった一点を指せる。接触の有無と力の量という二つの軸を置くと、四つの言い方がそれぞれ別の升目に入ります。
目的語を替えても差が出ます。「胸を打つ」と言うとき、打たれているのは身体の一部で、衝撃の当たった場所が具体的に指されている。「心を打つ」では場所が抽象へ移り、当たった点は指せなくなる。同じ動詞でも、目的語が具体か抽象かで、焦点が衝撃の位置から衝撃の事実そのものへ移動している。片方が古めかしく感じられるのは、身体を借りる言い方のほうが文語の記憶を引きずっているからでしょう。場所を指せるあいだ、比喩はまだ半分しか進んでいない。指せなくなったところで、接触は出来事そのものの名前に変わります。
受身にすると、さらに事情が変わります。「深く心を打たれ、しばらく動けなかった」は自然で、ここでは明らかに状態が持続している。出来事としては一撃、しかし残るものは持続する。能動形は接触の瞬間に焦点を置き、受身形は接触の後に残った状態へ焦点を移す——同じ語幹のまま焦点だけが動く例です。意味の焦点は語に固定されているのではなく、態や共起によって移動する。この移動を勘定に入れないと、能動と受身を同じ意味の裏表だと思い込んでしまう。実際、受身形になると持続の副詞が入れるようになります。じわじわ心を打たれた、はもう不自然ではない。態が変われば、拒んでいたはずの共起まで開くわけです。
実務に引き寄せると、選択はこうなります。能動で「打った」と書けば、主語は作品や光景の側へ移り、視点は受け手から離れる。受け手の内側を書きたい場面でこれをやると、そこだけ距離が開いて、語り手が一歩下がったように読める。打たれた側に留まりたいなら、動詞を使わずに残ったものを書く。指が動かない、次の頁がめくれない、感想を言おうとして言葉が出てこない。動詞が要らなくなった時点で、その場面はもう受身形の側に立っています。