公園で子どもが二人、砂場の道具の取り合いをしている。近くのベンチにいる大人が、それを見て顔をゆるめる。当の子どもたちにとっては、譲れない争いです。この落差から入ると、この形容詞の構造がわりあいはっきり見えてきます。言う側と言われる側で、同じ出来事の重さの見積もりが一致していない。それどころか、一致しないことがこの語の使用条件になっている。
含まれている判断を分解すると、二つあります。当事者は真剣である。しかしそれは重大なことではない。この二つが同時に成り立つときにだけ、この語は据わる。片方だけでは別の語になります。真剣さだけを認めるなら「健気」に寄り、重大でないという判定だけなら「くだらない」に落ちる。両方を同時に保持すること——認めることと、格下げすること——を一語でやってのけるところに、この語の特異さがある。
形式のほうも見ておきます。「〜ましい」という接尾を持つ語には「好ましい」「勇ましい」「痛ましい」などがあり、いずれも、対象がそう感じさせる、という言い方になっている。話者の感情を述べる形ではなく、対象の側の性質として述べる形です。この形式のおかげで、判断の責任が話者から離れる。私が見下している、ではなく、対象がそう見える、になる。格下げをしながら、格下げの主体を文面から消せる。ずいぶん都合のいい形をしている。
同じ接尾を持つ語のあいだにも、無視できない差があります。羨ましいなら、私は彼が羨ましい、と感じ手を主語に立てられる。ところがこの語ではそれができません。私は微笑ましい、と書けば、自分が微笑ましく見えているという意味に転がってしまう。感じ手が主語の位置へ上がれず、対象だけが主語に残る。喜ばしい、好ましいも同じ側にいて、どれも感情ではなく判定なのだと考えると辻褄が合います。感情には持ち主が要りますが、判定に持ち主は要らない。この語が誰の目にも属さない顔をしたまま流通できるのは、そのためです。持ち主のない判定には、抗議の宛先もありません。言われた側が反発したとして、誰が言ったのかを文が隠している以上、その反発は宙に浮いたままになる。
否定してみると、構造がさらに露出します。「微笑ましくない」は、単純な打ち消しになりません。多くの場合、それは非難として響く。真剣である、という前提が生き残ったまま、重大でないという判定のほうだけが否定されるからでしょう。そのとき残るのは、重大なことに真剣に取り組んでいる、ではなく、場違いに真剣である、という別の像です。前提と主張のどちらに否定が届くかで、意味は反転せずに横へ跳ぶ。疑問の形でも同じことが確かめられます。それは微笑ましいだろうか、と問うたとき、問いにかけられているのは重大でないという判定のほうだけで、当事者が真剣であるという条件は問いの外に置かれたまま残る。否定にも疑問にも侵されずに残る成分を、論理学では前提と呼んで、主張された内容と区別します。前提は反論の的になりにくい。反論しようとすれば、まずそこに前提が置かれていること自体を指摘しなければならず、それは会話を一度止める作業になります。
ここで、自分の書いたことに異議を出しておきます。これを見下しの語と断じてよいのか。親が子を見る目に、優劣の判断しか入っていないとは思えない。祖父母が孫を見る目にも、旧友の変わらなさを見る目にも、この語は使える。優劣では説明が足りない。それでも残るものを探すと、上下ではなく時間の非対称に行き当たります。話す側は、その道の先を知っている——あるいは知っていると思っている。過ぎた場所を、通り過ぎた側から見る位置。この語が出るのは、その位置からです。先を知っている者には、目の前の争いがどこへ着地するかの見当がついている。見当がつくから、重大でないという判定を下せる。子どもの側にそれがないのは無知だからではなく、まだその区間を通っていないだけです。測られているのは能力の差ではなく、経路のどこまで進んだかという差でした。
だから物語の地の文にこの語を置くと、語り手の年齢と立ち位置が一挙に確定します。語り手はその出来事の先にいる。先にいるという情報は、年齢を一行も書かずに読者へ渡ってしまう。逆に言えば、誰からも微笑ましく思われることのない人物を書くとき、書き手が扱っているのは、その人物を通り過ぎた者が誰もいない、という孤独のほうです。