書き上げた原稿から、登場人物が誰かを笑う場面だけを抜き出したい。そう思って検索窓に文字列を打ち込むと、必ず取りこぼしが出ます。同じ動作が、嘲笑う、あざ笑う、嗤う、鼻で笑う、と何通りにも書き分けられているからです。人間の目には全部が同じ場面に見える——機械にとっては、共通の部分文字列すら持たない別の列です。検索の失敗は、この語をめぐる事情をそのまま映し出しています。一つの動作に複数の綴りがあること自体は珍しくありませんが、蔑みを含む動詞では分岐がとりわけ大きい。感情の強さが、書き手に表記を選ばせるからでしょう。中立的な語ほど綴りは一つに収束し、価値判断を含む語ほど散ります。
分岐の原因の一つは表記の制度にあります。常用漢字表で「嘲」に認められている訓は「あざけ-る」で、あざわらうという読みはそこに含まれていません。つまり嘲笑うという書き方は、表の枠の外にある当て方です。「嗤」に至っては表外字で、公用文や新聞では使われない。制度が推す表記と、小説の中で選ばれる表記——この二つが食い違っているとき、テキストの上には複数の綴りが並存し続けます。統一する力がどこにも働かないからです。電子化された本文が増えたことで、この並存は前より見えやすくなりました。紙の本の中では気にならなかった揺れが、全文検索にかけた瞬間に穴として現れる。道具が変われば、同じ揺れの持つ意味も変わります。
形態素解析にかけると、別の問題が見えます。解析器は辞書に登録された単位で文を切るので、見出しのない複合は分解される。嘲笑うが一語として登録されていなければ、嘲と笑うに切られます。切られた瞬間、この動作は「笑う」の一種として集計され、蔑みという成分は統計から消える。語の単位を決めているのは言語ではなく辞書だ、という事実がここで露出します。未知語処理の巧拙しだいで、同じ原稿の語彙統計はまるで違う顔になる。自分の文章の傾向を機械で調べようとする書き手は、この点で二重に注意が要ります。出てきた数字は文章の性質ではなく、辞書と文章の相互作用の結果だからです。数えられたものだけが数えられた、という当たり前の制約がここにもある。
表記のゆれを機械的に吸収する道具として、編集距離があります。一文字の挿入・削除・置換をそれぞれ一回と数えて、二つの文字列の隔たりを測る指標です。あざ笑うと嘲笑うの距離は二。「あざ」の先頭を「嘲」に置き換えて一回、残った一文字を削って一回。あざ笑うと嗤うなら距離は三で、一致するのは末尾の一字だけになります。ところが、この三語が読者に与える蔑みの強さは、その順番どおりには並びません。表層の距離と意味の距離は一致しない。この不一致は道具の欠陥ではなく、文字が音と意味の両方を運ぶ表記体系を採っている以上、避けられない性質です。仮名だけで書かれる言語なら、綴りの近さはおおむね音の近さに対応します。漢字を混ぜた瞬間、一文字の置換が意味の飛躍を引き起こしうる。距離を測る道具を使うときは、何のあいだの距離かを毎回確かめる必要があります。
書き手の側から見ると、表記の選択は将来の自分に宛てた索引でもあります。全部を一つの綴りに統一すれば、あとから場面を集めるのは楽になる。しかし嗤の口偏が持つ視覚の毒や、仮名を混ぜたときの手触りは、統一と引き換えに失われます。ここは効率だけで決める場所ではないでしょう。現実的な折衷は、人物ごとに綴りを固定してしまうことです。冷ややかな語り手には一つの綴り、粗野な人物には別の綴りを割り当て、その対応を一箇所に書き留めておく。表記が人物の属性になれば、揺れは揺れでなくなり、場面を集めるのも一手で済みます。文字は検索されるために書かれるのではありませんが、検索できない文字は、書いた本人からも見えなくなる。