原稿の全文検索で、この動詞の語幹を打ち込んでみたことがあります。ヒットの総数より、目についたのは分布の偏りのほうでした。前半に固まって出て、中盤でぱたりと途切れ、終盤にまた戻ってくる。書いているときには意識していなかった波が、検索結果の一覧という形で外から見えてしまう。数えることの効用は、たぶんここにしかない。
拍の面から見ると、この語はやや長い。ほ・ほ・え・む と数えて四拍。同じ表情を指す「笑う」は、わ・ら・う の三拍で済みます。「微笑む」四拍と「笑う」三拍を比べれば、差はたった一拍ですが、文末を閉じる重さが違う。会話の後ろに「と彼は笑った」と付けるのと、「と彼は微笑んだ」と付けるのとでは、文が閉じるまでの時間が変わる。読点を打たなくても、長いほうには自然な余韻が生まれる。逆に、切迫した場面で使うと、拍が場面の速度を裏切ります。リズムの側だけを見ても、長い語は速い場面に向かない。切迫した場面に短い語を当てるほうが、文の速度と揃います。
分布には、もう一種類の偏りがあります。どこに現れるか、という偏りです。この動詞が出るのは地の文で、会話文の中にはほとんど現れない。人物が自分の表情をこれで言うことはまずなく、使われるとすれば他人の様子を報告するときか、皮肉として持ち出すときに限られます。同じ表情の語群でも、笑うのほうは会話にも地の文にも出ます。つまりこれは観察者の側の語彙なのです。計量にとっては面倒な性質で、密度を出すときの分母をどう取るかが問題になる——原稿全体の文字数で割ると、会話の比率が高い作品ほど自動的に薄く見えてしまいます。地の文の総量で割り直せば、同じ原稿がまったく別の顔になる。どちらの数字も嘘ではないところが厄介で、分母の選び方は結論より先に効いています。
頻度の面はもう少し慎重に言う必要があります。具体的な順位や比率を持ち出せるほど確かな数字を持ってはいませんが、日常的な「笑う」に比べて出現がずっと少ない語であることは、書いていれば経験的にわかる。そして低頻度の語には、特有の性質がある。読者が二回目で気づくのです。高頻度の語なら五回出ても目に留まらないのに、こちらは二度目で「さっきも出てきた」という感覚が立つ。語彙の選択がそのまま検出されやすさを決めている。ただし、何を一つと数えるかは自明ではありません。笑みを浮かべた、口元がゆるんだ、目だけで笑った。検索の上ではどれも別の語ですが、読者の記憶の中では同じ棚に入っている可能性がある。動詞形だけを数えて安心していると、名詞形へ逃げたぶんを取りこぼします。計量で最初に決めるべきなのは数え方ではなく、単位のほうです。単位を広く取れば重複の警告が増え、狭く取れば見落としが増える。
ここで、数えることの意味を疑ってみます。読者は数えない。総数が四十だろうと六十だろうと、読み終えた人に尋ねても答えられるはずがない。だとすれば計量は書き手の自己満足ではないか。……それでも残るものがある。読者は総数を数えないが、間隔は感じます。二百字の中に二回出れば気づき、二万字離れていれば気づかない。検出されるのは総量ではなく近接だけです。ならば管理すべき数値は総数ではなく、出現位置どうしの最小間隔のほうになる。
配分の設計には、逃れられない交換関係があります。同じ表情を指す語群のうち一つに寄せれば、それはその人物の癖として立ち上がり、読者は人物の像を掴みやすくなる。散らせば描写は平板になりにくいが、誰の表情も同じ質感に見えてくる。どちらが正しいということはない。ただ、寄せる場合には最小間隔を広く取り、散らす場合には語群の中に一つだけ特権的な語を残しておくと、両取りに近いところまでは行ける。
検索結果の一覧を眺めるとき、見るべきは件数の欄ではありません。行番号の並びのほうです。数字が近接しているところに印を付け、その二つのうち片方を別の言い方に替える。作業としては地味ですが、読者が唯一検出できる場所を直しているという意味では、最も効率がいい。替える先は語群の中に限りません。その一行を人物の動作へ振り替えてしまえば、表情の語を一つ消したうえで場面の情報が増える。二度目を消してしまえば、一度目は無傷のまま残ります。近接さえ壊れれば総数は元のままでかまわない、というのが、この作業のいちばん割のいいところです。長編一本ぶんの印を付け直しても、半日はかからないでしょう。