四拍の和語動詞は、拍の配列そのものが印象を作る。お・ぼ・え・る。母音は o-o-e-u と丸みから抜けへ移り、二拍目の濁音ぼが中央で少し沈む。清音だけが続く語に比べ、濁点が一箇所あるだけで口腔の感触が変わる。覚える行為——外の情報を内へ取り込むこと——と、音の沈みは偶然の一致に過ぎないが、読み上げたときの身体感覚としては無視しにくい。音象徴を科学のように断定はできない。それでも、朗読したときに引っかかる位置は、文のリズム設計の手がかりになる。手がかりは、意味の正しさとは別の試験だ。
類語の音を並べると差が立つ。記憶するは漢語二字にサ変が付いた五拍で、子音の切れが硬く、事務的だ。暗記するも同じ五拍で子音が立つ。身につけるも五拍だが、撥音と促音がなく、長く滑らかだ。四拍のおぼえるはそれらより一拍短く、手触りとしても硬い漢語と滑らかな和語複合の中間——柔らかさと、濁点による小さな抵抗——に落ちる。抵抗があるから、習得が一度で終わらない感じ、反復のニュアンスが音の層でわずかに残る。もちろん意味は用法が決める。音は意味の下支えにすぎない。下支えを意識すると、同じ意味領域でも場面の手触りを分けられる。分け方は、ジャンルの呼吸にも合わせる。
同じ音形が、別の意味も担っている。寒気を覚える、違和を覚えるといった用法では、記憶ではなく感覚の発生を指す。音は完全に同じなので、耳は動詞に達した時点ではまだ選べない。日本語は目的語が動詞より前に来るため、実際には先に置かれた名詞が選択を済ませている。寒気と聞いた時点で感覚の側が決まり、単語帳と聞けば記憶の側が決まる。決まる位置が動詞より手前にあるということは、文末の音が届くころには意味の仕事が終わっているということでもある。終わっているからこそ、この動詞は文末で軽く鳴る。軽く鳴る述語は、句点の前に置いても文を重くしない。重くしたくない結びとして使えるのは、この配置のおかげだ。
文中での音の配置も効く。語を文末に置くと、沈む二拍目が文の終止感を支える。連体修飾や中間に置くと、沈みは通過点になり、あとの語へ流れる。長い文の中ほどにこの動詞を置くと、読者の息が一度落ち、次の目的語や補語が前景化する。息の落ちを意図しないなら、より平坦な漢語に替えるか、文を分割する。音韻は意味の装飾ではなく、呼吸の設計図の一部だ。設計図を持たずに類語を入れ替えると、文の重心が意図せず動く。動いた重心は、読者には理由のわからない読みにくさとして届く。
活用させると、音の輪郭はさらに変わる。覚えた、覚えている、覚えていられない、覚えさせられた。四拍の核に接辞が積まれるほど、母音は e と i と a の細かい交替に沈み、語頭の丸みは遠ざかる。長い形は、事務的にも切迫的にも聞こえる。切迫を出したいなら、長い形を短い文に入れて、周りの語を削る。事務に寄せたいなら、長い形を長い文の途中に埋める。反対語との対も音で作れる。忘れるは同じ四拍で、母音は a-u-e-u と開きから抜けへ流れ、濁点はどこにも入らない。拍数が並んでしまうぶん、二つを近くに置いたときに残る差は、中央で沈むぼがあるかないか、その一点に絞られる。長さで重さを付けられない対なので、濁音の有無を聞かせる位置に置く必要がある。並べるのは一度でいい。二度並べると、対比ではなく修辞の癖に見える。
創作では、習得の種類で音の系列を使い分けるとよい。技能の体得なら、擬態や身体語(手が覚える、足が覚える)と並べ、濁点の沈みを身体側へ寄せる。知識の保持なら、数字や固有名と並べ、語の柔らかさで機械的な暗記との差を出す。どちらの場合も、同じ音を近くで二度続けない方が抵抗は保たれる。反復は抵抗を摩耗させる。結局、意味が同じ候補が並ぶとき、残る差はしばしば音の抵抗の位置だ。位置は、辞書には書かれていない。