声に出すと六拍。ゆ・め・う・つ・つ・に、と等間隔に並びます。母音を順に取り出すと u・e・u・u・u・i で、狭い母音が五つ、中ほどの e がひとつ。u は日本語のなかでも唇の丸めが弱く、口の開きが小さい母音とされます。つまりこの六拍を発音するあいだ、顔はほとんど動きません。鏡の前で言ってみると、口が開かないまま音だけが続くのがわかります。半分眠っている状態を指す語が、覚醒した口の運動をほとんど要求しない——偶然かもしれませんが、音読される文の中では確かに効きます。
子音の側はもっとはっきりしています。この六拍には濁音がひとつもありません。y、m、ts、ts、n。破裂の強い音も、摩擦の目立つ音もなく、無声破擦音の「つ」だけが二度、息の抜けるように繰り返される。濁音を含む語は大きく重い印象を与えやすいという報告が音象徴の研究にはありますが、その逆を積極的に使っている語だと言えます。息の量が少なく、母音の開きが小さく、繰り返しがある。この三つが揃うと、語そのものが小声で言われることを前提にしはじめます。
近い意味の語と並べると、担当している身体が違うのが見えてきます。うつらうつら、は同じ形を二度繰り返す型で、反復が持続を表します。ら行の弾き音が入るぶん、輪郭がわずかに立つ。まどろむ、は m・d・r と有声の子音が続き、口の奥のほうで音が溶けます。ぼんやり、には撥音があり、鼻へ抜ける長い一拍が入るので、時間の感じ方が違ってくる。同じ状態を指す語でも、口の中で起きていることが違えば、置かれた文の速度も変わります。
内部の割れ方も見ておく価値があります。この句は前半二拍と後半三拍に、意味の上でも音の上でも分かれます。眠りの側を指す二拍と、覚めている側を指す三拍。対になる二語を並べて一語のように扱う型は日本語にいくつもありますが、多くは同じ拍数どうしで釣り合っています。ここでは釣り合っていない。前半が短く、後半が長い。しかも境目にあたる二拍目と三拍目は e と u が直接つながる母音の連続で、子音による仕切りがないため、切れ目が耳に立ちません。二つの状態の境界を表す語が、その境界の位置に、いちばん聞き取りにくい継ぎ目を置いている。
拍の数そのものも設計要素になります。日本語の拍はほぼ等しい長さで並ぶと仮定されてきましたが、実測ではそれほど厳密でないという指摘もあります。それでも書き手にとって重要なのは、六拍が二拍三つに割れるという単純な事実のほうです。文頭に置けば、文全体の助走が六拍ぶん伸びる。動詞の直前に置けば、動作の手前で速度が落ちます。促音も撥音も含まないため、途中で息が止まる場所がない。切れ目のない六拍は、意識が途切れずにゆっくり薄れていく状態と、時間の形が一致します。
実務としては、この語を置いた前後一文の濁音の密度を見ておくとよい、というくらいの話になります。周囲に濁音の多い語が並んでいると、無声音だけでできたこの句が浮いて、そこだけ音量が下がったように読める。それを狙うなら残し、地の文全体を静かに保ちたいなら、周囲も揃えます。音の設計は、語を選ぶ段階ではなく、選んだ語の隣に何を置くかで決まる。眠りぎわを書くというのは、結局、口を大きく開けさせない文を並べる作業に近い。