うっとりと

【うっとりと】副詞

使い分けの視点

うっとりとには、いつも観測者がいます。誰かがこう描写されるとき、そこには必ずその横顔を見つめ続けていた別の誰かがいます。我を忘れている当人は自分を観測できないので、この語は外から見える兆候の顔をしながら、他人の没入を断定できる数少ない通路になります。置いた瞬間に視線の配置が決まる語として扱うのが、実態に合った運用です。

同義語

同品詞の類義語

陶然と文芸的
恍惚と文芸的
夢見るように
酔いしれて

類義句

同品詞の慣用的言い換え

我を忘れて
心を奪われて
目を細めて

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

夢見心地のような文芸的
蕩けるように文芸的
白昼夢のような文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

酔いしれる
見惚れる
心を奪われる

体言的言い換え

用言を体言に変換

夢見心地で
陶酔の表情で文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

とろりとcolloquial
ほうっとcolloquial
蕩然と文芸的

関連語を探す

語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

横顔エッセイ関連

例文: 横顔だけが、うっとりしていた。私は景色を見ず、その横顔を見ていたことを、最後まで言わなかった。

聴き入るエッセイ関連

例文: 路地の奥の歌声に、配達夫はうっとりと聴き入った。届ける手紙の束が、腕の中で少し重くなった。

見ていた人の言葉——観測者のいる副詞

「さっき、うっとりしてたね」。こう言われた側は、たいてい少し狼狽します。指摘の内容が不名誉だからではありません。自分では意識していなかった時間を、他人に観測されていたと知らされるからです。この語の使用には、いつも観測者がいます。そして観測される当人は、その瞬間、自分を観測できていない——我を忘れている状態を指す語なのだから、定義上そうなります。見られていた事実そのものは、あとから取り消しようがありません。

日本語の文法には、他人の内面を直接断定しにくいという性質があります。「彼は嬉しい」とは言いにくく、「嬉しそうだ」「嬉しがっている」と、外側からの推定に切り替える。ところがこの副詞は、その制約を器用にすり抜けます。とろけた表情や緩んだ姿勢という、外から見える兆候を名指す顔をしながら、実質的には「心を奪われている」という内面の記述として機能する。見た目の語彙の皮をかぶった心理の語彙で、語り手が他人の没入を断定してよい、数少ない通路になっているわけです。人称と時制にも同じ性格が現れます。「彼女はうっとりと聴き入っている」は自然でも、一人称の現在形に置き換えると奇妙な文になる。我を忘れている最中の自分を、我を忘れないまま実況することになるからです。過去形にすれば通ります。過去の自分は、現在の自分にとって観測対象——つまり他人の位置に立てるからです。

このため、小説の中にこの語が置かれると、文には自動的に視線の構造が生まれます。誰かがそう描写されるとき、そこには必ず、その横顔を見つめ続けていた別の誰かがいる。夢中になっている人は自分の顔を見られない以上、この描写は観測者の存在証明にほかなりません。恋愛の場面で重宝されるのは偶然ではなく、「あなたが我を忘れているあいだ、私はあなたを見ていた」という非対称そのものが、関係の描写になるからでしょう。

発話としての働きにも、同じ非対称が影を落とします。冒頭の台詞のように本人へ向けて使えば、無防備だった時間の指摘になり、からかいにも親密さの表明にもなる。第三者について言えば、その人の隙を聞き手と共有する、内緒話めいた色が出ます。褒め言葉に転用しても事情は変わらず、「聞き惚れるような声だった」と口にすれば、聞き惚れていた時間の存在を自分から告白していることになる。話し手は単なる状態の報告のつもりでも、聞き手は「あなたはそれを見ていたのか」という情報を必ず一緒に受け取ってしまう。この語は、意味内容よりも、発話することで露呈する視線のほうが雄弁なのです。

書き手にとっての注意点も、結局ここに帰着します。この副詞を使った瞬間、読者は無意識に観測者を探す。視点人物が見ていたのなら、その眼差しの熱まで含めて情報になります。誰も見ていないはずの場面で使えば、語りの立ち位置が一瞬曖昧になる。状態の描写語というより、視線の配置を決める語として扱うのが、実態に合った運用だと思います。

文: hakadoru.ai 編集部

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