他人の原稿でも自分の原稿でも、読み返していると決まって速度が落ちる箇所があります。感情を名指す動詞が、場面の入口に置かれているとき。たとえば「彼は自分の言葉を恥じた」と書き、そこから会話を続けていく書き方。文としては正しく、意味も通ります。それでも直後の数行が急に薄くなることが多い。なぜ薄くなるのか、長いあいだうまく説明できませんでした。文章が下手だからではない。むしろ書き手が達者なときほど、この崩れ方をします。
手がかりは格にありました。この動詞は目的語をとります。無知を、過去を、自らの至らなさを——「〜を」で受ける対象がなければ形が整わない。ということは、この語を使う時点で、何を恥じているのかが人物の内部ですでに確定していることになります。対して形容詞のほうは対象を言わずに済む。ただ「恥ずかしい」とだけ言える。ここに差があります。動詞は判定の語なのです。判定は、事態の把握が終わったあとにしか下せない。だから入口に置くと、人物が場面の意味を先回りして理解し終えた状態から始まってしまい、読者は理解の過程を見損なう。
格の話は、そのまま視点の話に接続します。地の文でこの動詞を使った瞬間、語り手はその人物の内側を見る権限を宣言したことになる。外から観察できるのは、うつむいたこと、声が小さくなったこと、席を立ったことまでで、何を対象として判定が下されたかは本人にしか分かりません。一人の人物に密着した書き方なら問題は起きない。ところが、複数の人物を等距離に置いている章の途中で、一人にだけこの語を使うと、そこだけ距離が縮みます。読者は視点が移ったのかどうかを確かめにページを戻る。感情を名指す動詞は、内容を伝えるより先に、誰の目で見ているのかを申告してしまう。速度が落ちる箇所には、たいていこの申告が混ざっています。
ここで自分の観察に異議を出しておきます。目的語を常に要求するわけではない。「恥じることはない」では対象が落ちますし、「恥じ入る」になると重心が対象から姿勢のほうへ移ります。「恥じらう」に至っては別の語で、対象がなく、むしろ他人の視線を織り込んだふるまい自体を指す。だから「必ず何をが要る」とは言い切れません。それでも残るものはあって、この周辺の語群の中で、この動詞がいちばん「何を」に近い場所に立っている、という事実は動かない。近さの度合いの話なのだと考えると、腑に落ちます。
実務に落とすと、置き場所は段落の入口ではなく出口になります。視線をそらした、返事をしなかった、湯呑みの位置を直した——先に動作を書き、最後の一行で判定を置く。すると直前の数行が遡って意味づけされ、読者は自分がすでに見ていたものの名前を受け取ることになります。感覚的な目安として、この動詞は前方に三行から五行ほどの助走を欲しがる。助走なしに使うと、読者は判定だけを渡されて、判定の根拠を自分では持っていない状態になります。
否定の形にも癖があります。恥じることはない、と人物に言わせると、その場に恥が存在することのほうがかえって確定する。相手がすでにそう感じているか、これから感じそうだと話し手が見ているか、どちらかでなければ出てこない台詞だからです。慰めの言葉が慰めになりきらないのは、この構造のためでしょう。自分について言わせる場合はさらに厄介です。同じ形を一人称で口にする人物は、読者の目には弁明している人に見える。自分に判定を下せる立場を、その場で主張してしまうからです。打ち消して消えるのは事実の側だけで、話題のほうは残る。だから、疑いを晴らす場面でこの否定形を使うと、たいてい逆の効果が出ます。台詞で否定させるより、動作で否定させたほうが安全な場面は少なくありません。顔を上げたまま相手を見る、求められた書類をそのまま差し出す。判定を口にしない人物のほうが、結果として判定を免れているように読まれます。読者は、言われなかったことのほうを信じる癖を持っています。
もうひとつ、一人称の語りでは別の使い道があります。この語は時間差を作れる。当時は平気だった行為を、語っている現在の自分が恥じている、と書ける。目的語は過去の出来事、判断の主体は現在の話者。この二層があるとき、一行の中に十年が入ります。結局のところ、対象を要求する語は書き手に「何を」を先に決めさせる。決まっていなければ書けない——書けないことがその場で分かるのが、この動詞の実務上の効用です。