自分の動作をこの語で描く人は、まずいません。「のそのそと起き上がった」と一人称で書くことはできますが、書いた瞬間に自己戯画が混じる。鏡を見て自分を採点している人の文になる。ほかの擬態語、たとえば「ゆっくりと」なら、そんなことは起きない。速度としてはほとんど同じことを言っているのに、片方は中立で、片方は評価を連れてくる。この非対称が、扱いにくさの中心にあります。
評価がどれくらい固く貼りついているかは、外そうとしてみると分かります。「のそのそと歩いていたが、遅くはなかった」。据わりが悪い。文が運ぶ含みには、後から取り消せるものと取り消せないものがあって、これは取り消せない側に属しています。「ゆっくり歩いていたが、遅くはなかった」なら通る。つまりこの語が運んでいるのは速度の情報ではなく、遅さに対する評価そのもので、評価のほうが語の中核にある。
では誰の評価か。ここが面白いところで、この語を使うと、書かれていない誰かが場面に呼び出されます。「のそのそと現れた」と書けば、その場には待っていた人がいる。遅さは、待つ者にとってだけ意味を持つ属性です。速度は物理的に測れます——遅さのほうは、基準を持つ観測者がいて初めて成立する。だからこの副詞は、文法上は動作主の様態を述べているように見えて、実際には観測者の席を一つ用意している。書き手が意図していなくても、席は用意される。
もう一つ、この語には奇妙な制限があります。命令や依頼の文に乗らない。「のそのそと来なさい」は、冗談としてしか成立しません。「ゆっくり来なさい」なら問題なく通るのに、です。理由は評価の所在で考えると見えてきます。相手に何かを命じるとき、話者は相手の行為を要求しているのであって、その行為をあらかじめ低く採点することはできない。採点を含んだ語は、要求のかたちに入らない。動作の記述に見える副詞が、実際には話者の判定を運んでいるという先ほどの見立ては、この制限からも裏づけられます。判定は、済んだ行為にしか下せない。
ただし、この説明では届かない用法があります。熊や亀の動きを描くとき、待っている人は必ずしもいない。誰も急かしていない山中の熊も、この語で書けます。ならば共通しているのは何か。おそらく、質量に見合った速度への注目です。大きいものが大きさなりに動いている、その釣り合いを見ている視線がある。人間に使うときには、その視線が「もっと速く動けるはずだ」という期待とぶつかって苛立ちに変わり、動物に使うときにはぶつかる相手がいないので、単に量感の描写に落ち着く。分かれ目になっているのは、評価よりも期待の有無なのかもしれません。
書く場面での帰結は、はっきりしています。三人称の地の文でこの語を使うと、視点人物の苛立ちが漏れる。誰の目でもない語りのつもりで書いていても、読者は誰かの目を通して見ていると感じる。それが望んだ効果なら問題はなく、むしろ、視点人物の感情を一行も書かずに焦りだけ伝える手として有効です。望んでいないなら、速度そのものを書けばいい——歩幅、足音の間隔、扉から席までにかかった時間。同じ遅さを、席を用意せずに書く方法は、いくらでもあります。