書評で「古典的な作品」と書かれていれば、たいていは褒めています。ところが同じ書き手が数行あとで「古典的な構成に頼りすぎている」と書くこともある。片方では権威を指し、もう片方では惰性を指しているわけです。最初はどちらかが不用意な使い方なのだろうと思っていました。けれど用例を並べていくと、そうではないらしい。両方の読みが、同じ語の中に最初から入っている。
手がかりは後ろの一字にあります。「〜的」は、明治期に英語の -tic や -cal を受けるために大量に作られ、その後も生産的に使われ続けた接尾辞として知られています。ここで効いているのは、この接尾辞が「〜に属する」ではなく「〜のような」に寄る、という点です。古典に属するものは、もう古典そのものです。古典的なものは、古典ではない何かが古典に似ている。この一段の距離があるために、読みが分岐します。古典と同じ高さにある、という読みと、古典と同じ古さにある、という読み。距離は測れても、方向までは語が指定してくれません。
前半の「古典」の側も、放っておくと歴史が抜け落ちます。何を古典と呼ぶかは自然に決まったわけではなく、近代の学校制度と国文学という学問が範囲を確定していきました。それと並行して、classicism の訳語としての「古典主義」がロマン主義との対で入ってきます。この時点で「古典的」は二重の身分を持つことになった——時代区分を指す語であり、同時に様式を指す語でもある。様式としての古典的は、均衡や抑制や完成度を意味します。時代としての古典的は、単に前の時代にあった、という以上の意味を持ちません。
文学の外へ出ると、この語が後から与えられるラベルであることがはっきりします。古典力学という呼び名は、力学が生まれた時点には存在しませんでした。量子力学が現れて、それ以前の体系を呼び分ける必要が生じたときに、遡って付けられた名です。古典的条件づけも同じで、オペラント条件づけという別の型が立てられたあとから、先にあったほうがそう呼ばれるようになりました。どちらの場合も、名づけているのは後続の側です。名指された体系は、自分でその名を選んでいない。ここには、褒められているのか区別されているだけなのかを当人に確かめられない、という構造上の宙づりがあります。書評の一語がときどき冷たく届くのは、たぶんこの宙づりのせいです。落語や芸能の分野で「古典」と「新作」を分ける言い方も同じ形です——新作が現れるまで、古典が自分を古典と名乗る必要はありませんでした。
同じ語源が別の入り口から入った例も、日本語には残っています。音楽の領域では「古典音楽」という訳語がありながら、実際に広く定着したのは片仮名の「クラシック」のほうでした。片仮名語は評価の含みを持ちにくく、ジャンルの名として中立に働きます。クラシックと呼ばれた曲が古びていると指摘されることは、まずありません。同じ classic 系の語なのに、漢語訳のほうだけが時間の評価を背負い込んでいる。訳語を作るか音を借りるかという選択が、百年後の語感を分けてしまったわけです。この形容動詞を使うたびに書き手が引き受けているのは、漢語訳の側に溜まった時間のほうです。ためしに文中の一語を片仮名に替えてみると、評価の温度が下がるのが分かります。クラシックな装丁、と書けば様式の指定で終わり、古典的な装丁、と書けば褒めているのか古臭いと言っているのかが読者に委ねられる。同じ意味を運ぶはずの二語が、責任の所在まで変えている。
ここで立ち止まります。二つの読みが同居しているなら、読者は何を手がかりに選んでいるのか。修飾される名詞で決まる、というのが最初に思いついた答えでしたが、これは半分しか当たりません。「古典的な誤り」という言い方を置いてみると、権威でも古さでもない三つ目の読みが出てきます。教科書に載っている典型、という意味です。この読みは評価を含まない。三つ目があるとわかった時点で、名詞との相性という説明は崩れます。
それでも残るものはあります。「古典的」は対象の質を評価する語ではなく、対象と時間との関係を指定する語だ、ということ。高さなのか、古さなのか、反復されてきた典型なのか。書き手がそのどれを指しているか自分で決めていないと、読者はいちばん冷たい読みを取ります。褒めたつもりの一語が、古びているという指摘として届く。この事故を避けるには、その語の前後に時間の座標をひとつ置いておくのが確実です。何と比べて古典的なのか、いつからそう呼ばれているのか。語だけでは足りない部分を、文が補うしかありません。