短い感嘆の一声を発するのにかかる時間は、せいぜい零点数秒でしょう。この句は、経過した時間をその一声の長さと比べてみせる言い回しです。つまり、発話というひとつの動作を物差しにした時間の単位。人工の原器ではなく身体の動作を基準にした尺度は古くからあり、まばたきひとつを単位にした言い方、指を弾く一瞬を単位にした仏教語の「弾指」、呼吸ひとつを単位にした言い回しなどが並びます。この句はその系譜の末端にいて、しかも基準に選ばれた動作が驚きの声であるため、時間の短さと同時に、話し手が不意を打たれたという情報まで一緒に運びます。
成り立ちを見ると、この句は文がまるごと圧縮された形をしています。驚きの声の引用に「という」が続き、「間」という名詞を修飾する節構造が、副詞句として一語なみに固まった。「間」を核にした名詞句としても働き、「あっという間の五年だった」のように述語の位置にも立てます。面白いのは、引用されている声が実際には誰の発話でもないことです。誰かがもし声を上げたとしたら、その声が終わるより先に事は済んでいた——仮想の発話を物差しに立てる、小さな反実仮想がこの句には畳み込まれています。
数学の言葉に翻訳すると、この句は等式ではなく不等式の主張です。体感された長さを予期していた長さで割った比が、一よりはるかに小さい。それだけを言っており、絶対量には触れていません。三時間の映画にも十年の歳月にも使えるのはこのためです。量の句ではなく比の句である、と押さえると、この表現の振る舞いはよく整理できます。
もうひとつの特徴は、事後にしか使えないことです。進行中の時間に向かって言うことはできず、区間が閉じてから振り返って、初めて口にできる。測定は対象の区間が締め切られてからしか行えない、という測ることの基本条件が、この句の使いどころにそのまま刻まれています。「気づけば」「いつの間にか」と並べてみると、どれも同じ回顧の構えを持つことが分かる。速さの体感とは、その最中には存在せず、閉じた区間に下される事後の判定なのです。
比で感じる、という性質は人間の知覚全般に見られます。感覚の強さは刺激の物理量そのものではなく、その対数におおむね比例するという経験則が、ウェーバーとフェヒナーの名で知られています。重さでも音量でも、十から二十への変化と百から二百への変化が同じ程度の変化として感じられる。これを時間に当てはめる考え方があり、年齢を重ねるほど一年が短く感じられる現象を、その一年が生きてきた時間の全体に占める比率の減少で説明します。五歳児の一年は人生の五分の一、五十歳の一年は五十分の一。ジャネーの法則と呼ばれるこの説明は仮説の域を出ませんが、対数の目盛の上では等間隔の年月が晩年ほど狭い区間に写像されていく、という描像は、この句が人生の後半でひんぱんに口をつく理由の説明としては魅力的です。対数の目盛そのものは、日常のあちこちに敷かれています。地震のマグニチュード、音の大きさのデシベル、酸性度の pH——どれも物理量の対数を目盛にした尺度で、桁で変わる量を人間の感覚に合う幅へ圧縮する工夫です。主観時間の対数仮説は、この工夫を裏返して、人間の内側に最初から対数の目盛が入っていると見る発想だと言えます。
時間の心理学はさらに、進行中に感じる長さと、振り返って見積もる長さを別の量として扱います。楽しい時間は過ぎている最中には短いのに、思い出すと出来事が詰まっていて長くも感じられる。この食い違いは、進行中の体感が注意の配分に依存し、回想の見積もりが記憶に残った出来事の密度に依存する、という仕組みの違いで説明されます。この句が測っているのは前者、注意が時間の外に向いているあいだに置き去りにされた側の時計です。だから充実した休暇の形容にも、何もしなかった連休の形容にもなる。同じ句が正反対の中身を包めるのは、比の主張しかしていないからです。
単位に選ばれた「間」という語が、空間の隔たりにも時間の隔たりにも使えることも、数学の目には偶然と映りません。時間も直線上の空間も、順序があり、二点のあいだに距離を定められる一次元の連続体で、構造が同型です。「長い年月」「遠い昔」と時間に空間の形容詞を流用できるのも同じ事情による。なお厳密な意味での瞬間は幅を持たない点であり、長さは零です。「一瞬で」が誇張としてこの点を名乗るのに対し、発話一回ぶんの物差しを掲げるこの句は、零ではない正の幅を正直に保ち続けます。
正の幅がある以上、その内部は無限に分割できます。古代ギリシャのゼノンは、走者がゴールに着くまでにはまず中間点を通らねばならず、その前にさらにその中間点を、と分割を繰り返して運動の完了を疑ってみせました。あっと言い終えるまでの短い区間にも、同じ理屈で無限の中間点が詰まっています。それでも声は言い終えられる——無限に分割できることと有限の長さで終わることの両立は、後世、収束する無限級数の和として整理されました。短さの極みを名指すこの句の足元にも、実数の連続体という底なしの構造が広がっているわけです。
物語を書く人にとって、この句は語りの変速レバーです。物語の中で流れた時間と、それを述べる文章の量との比を語りの速度と呼ぶなら、この句は数か月を一文に圧縮する高速側の極にあります。ただしレバーには代償がある。圧縮された時間は読者の体感からも消えるため、多用すると、長い歳月が流れたはずなのに何も起きていないのと区別がつかなくなります。速度を上げる句は、上げない区間があってはじめて効く。変化の比率だけが知覚されるという感覚の対数性は、文章のリズム設計にもそのまま跳ね返ってくるのです。