ウェブ小説の一話はおおむね二千字から四千字で、その中に小さな山をひとつ作るのが連載の基本設計になります。追い立てる場面、畳みかける場面を書こうとしたとき、書き手が最初に手を伸ばす句のひとつがこれです。使いたくなる理由ははっきりしています。書き手は、自分が書いた場面が速く読まれるという保証が欲しい。読者がどう感じるかは制御できないので、せめて速さについての言明を、文の中に置いておきたくなる。保険としては、まっとうな心理です。
ところがこの句は、それだけで八拍を数える長い副詞句です。速度について語る語が、その文の中でいちばん時間を食う。「息つく間もなく、次の刺客が現れた」と「次の刺客が現れた」を並べてみると、後者のほうが速く感じられることが多い。読者が体感する速度は、書かれた内容ではなく、目が文をなぞる時間と、一文あたりに詰まった情報量で決まっているからです。速度を宣言する語を足すと、宣言のぶんだけ実際の速度が落ちる。これは修辞の議論ではなく、単純な文字数の計算です。
もっとも、効いているのは文字数だけではありません。日本語は述語が後ろに来る言語なので、文頭に置かれた修飾句は、受ける先が現れるまで宙に浮いたままになります。八拍のあいだ、読者は主語も述語もない状態で待たされるわけです。しかもこの句は否定で終わっていて、否定の処理は肯定より一手多い。速さを出すために置いた語が、文の入口で足止めを作っている。同じ内容でも、「次の刺客が現れた。息をつく間もない」と後ろへ回せば、その待ち時間は消えます。語順を替えるだけで、宣言は残り、遅さのほうだけが減る。
同じ構造の失敗は、他の語でも起こります。「一瞬で」「あっという間に」「間髪を容れず」。どれも短さを語る長い語であり、書けば書くほど場面は間延びしていく。実際に速度を作っているのは、文の長さ、改行の頻度、描写を削る度胸、そして動詞の選び方です。読点をひとつ減らす、修飾語を落とす、主語を省く、接続詞を切る——地味な操作の積み重ねが、宣言よりずっと効きます。戦闘場面が遅く感じられるとき、原因はたいてい、速度を語る語の不足よりも、一文あたりの節の多さにあります。ついでに数えておくと、「間髪を容れず」も、か、ん、ぱ、つ、を、い、れ、ず——八拍あります。短さを言う句が同じ長さに落ち着くのは偶然でしょうが、偶然にしては皮肉が効いている。
では、この句が無効かというとそうではありません。有効に働くのは、速度ではなく疲弊を書きたいとき——場面の進行ではなく、進行に巻き込まれた人間の状態を書きたいときです。「息つく」は主観的な動作で、視点人物が自分の余裕のなさを内側から報告している。休みたいのに休めない、という欲求がこの句には最初から織り込まれている。だから一人称や、視点人物に密着した三人称では機能します。逆に、俯瞰的な語りで戦況を説明する文脈に置くと、誰が息をつきたがっているのかが宙に浮き、句は説明語に痩せます。
疲弊の側に効く理由は、周りの語彙を見ると見当がつきます。一息つく、息を入れる、息を継ぐ、息抜き。日本語で休息を言う言い方は、呼吸の語彙にかなり寄っています。休むという動詞そのものよりも、呼吸をひとつ整える動作のほうが、休息の像として先に立つ。この句はその像を否定の形で借りているので、休めないという事態を、制度や状況の側からではなく身体の側から言えることになります。「休む暇もなく」と書き換えると、意味はほぼ同じまま届くのに、肺の動きだけが文から抜け落ちる。二つの句のあいだに残るのは、その差です。ついでに言えば、この形は肯定へ戻せません。息つく間があった、とは言わない。休息の不在だけを名指すために固まった言い方だからです。油断も隙もない、いてもたってもいられない——否定の形でしか現れない句は日本語にいくつもあり、これもその一つに数えられます。書き手が手に取っているのは速度の宣言というより、そうやって固まってしまった型のほうです。
実務上の目安を置くなら、こういう句は一章に一度までにする。二度目からは、読者は場面の激しさではなく作者の焦りを読み取り始めます。そして使うと決めたら、その句を含む文だけは短く保つ。「息つく間もない。」と言い切って終えてしまう手もあります。長い副詞句を短い文に収めれば、少なくとも文全体としては速度を落とさずに済む。あるいは、直前の段落をあえて長く緩やかに書いておき、そのあとにこの句を置く。落差があれば、句は宣言ではなく転調として働きます。速度を語りたいときほど、語らない設計を先に検討する価値があります。