穏やか、爽やか、細やか、健やか、しなやか。やかで終わる語を並べてみると、どれも外から眺めた様子を述べていることに気づきます。当人の内部事情ではなく、見た目の印象。あざやかも同じ型で、語幹に当たるのはあざの二拍だけです。この部分が何を意味していたかについては説が分かれており、一つに定めることはできません。分かるのは、接尾辞の側が「外見の様子」という枠を与えていることのほうです。
近い型に、明らか・柔らか・清らかのようならかで終わる一群があります。こちらは対象そのものの性質に踏み込む語が多く、やかの一群が印象を述べるのと対照的です。どちらの接尾辞も、現代語では新しい語をほとんど作りません。生産性を失った造語法だけが、すでに作られた語のかたちで残っている——だからこの一群は、語の内部構造がそのまま古い時代の設計図になっています。
同じ語幹から出た二つの形が、修飾する対象を分け合っている点は観察しやすい事実です。連体の形は色に付きやすく、鮮やかな青、鮮やかな緋という並びが自然に出てきます。副詞の形は動作に付きやすく、鮮やかに決める、鮮やかに翻す、鮮やかに言い当てるといった形で現れる。色を鮮やかに塗る、という言い方も成り立ちますが、そのときも評価されているのは塗るという動作のほうです。
古い用法では、色に限らず、際立って明瞭であることを広く指したとされます。そこから色彩へ寄った用法と、動作の見事さへ寄った用法が分かれていった——意味が増えたというより、二つの形が守備範囲を分け合ったと見るほうが実態に近いように思われます。副詞形が動作を引き受けたのは、副詞という品詞が動詞にかかる位置にあるからで、意味の分化を品詞の役割が引っ張った例と考えられます。語形の分業が意味の分業を作ることは、他の形容動詞でも起きています。
分業の跡は、置ける位置の差にも出ます。連体の形は名詞の直前にしか立てませんが、副詞の形は述語からかなり離れた場所にも置ける。文頭に出して、鮮やかに、と一拍置いてから動作を書く運びが可能なのは副詞形だけです。同じ語幹から出た二つの形が、意味だけでなく文中での自由度まで分け合っている。語形の違いが担当範囲を決め、担当範囲が意味の重心を決め、重心の差がやがて別語のような感触を生む。数百年かけて進んだこの手順は、いまも途中の段階にあるように見えます。
実務上の含意は、その自由度のほうから出てきます。文頭に出して切れば、読者は評価を先に受け取り、そのあとで動作の中身を照合する順序になる。述語の直前に戻せば、動作が先に立ち上がってから評価が追いつく。同じ一語を同じ一文に置いても、どちらを選ぶかで、読者が判定を下す位置が入れ替わります。連体の形にはこの選択がありません。名詞の直前という一か所しか空いていないからです。
分業の残りかすに見えたものが、書き手の側では手数の差として返ってくる。位置を選べるということは、読者の判断の順序を選べるということです。