歳時記でこの語が秋に配当されていることを知ると、感覚が一度ずれます。身体のほうは、五月の朝に窓を開けたときの空気をそう呼んできた。どちらかが間違っているのだろうかと考えかけて、その問いの立て方が違うことに気づきます。歳時記は、日常語がどう使われているかを記述した資料ではありません。何をどの季節として詠むかという、俳諧の側の取り決めです。記述ではなく規約であるものに、記述の正しさを問うことはできない。
取り決めである以上、要請があります。俳諧は一句に一つの季を求め、そのために季語を排他的に割り当てる。ある語が二つの季節にまたがっていると、その語の入った句の季が定まらなくなる。だから体系のほうは、実際の使われ方に幅があっても、どこか一つに決めなければなりません。位相が違うとはこういうことで、日常語の側の広さと、専門体系の側の一意性は、そもそも競合していない。片方が片方を訂正する関係にありません。同じ語が二つの世界で別の規則に従って動いていて、書き手はふだんその境目を意識せずに行き来している。
そこまでは整理できるのですが、まだ引っかかりが残ります。季語の体系も、もとは生活の実感から編まれたはずで、実感と制度がここまで離れるのは妙です。両方の実感を並べてみると、秋のそれは夏の湿った暑さの後に来る空気を指し、初夏のそれは冬の重さが抜けた後の空気を指している。どちらも、直前の季節との差として立ち上がっている。つまり実感の側は矛盾していません。この語が捉えているのは絶対的な気温や湿度ではなく——直前からの変化のほうだった。変化を言う語は、変化の起点が変われば季節をまたぎます。矛盾は、一意を要求した制度の側で生まれている。
対になる語を探すと、見つからないことに気づきます。不快な空気を言うには、蒸す、むしむしする、じめじめする、よどむ、と並べるほかない。快の側は「やか」で終わる形容動詞が引き受け、不快の側は擬態語や動詞が引き受けています。この配分は偶然ではないように思われます。不快な空気は皮膚に貼りついていて、話し手はそこから距離を取れない。だから音を写す語が出てくる。抜けたほうは、抜けたという変化を一歩下がって眺められるので、状態を名づける形が使える。同じ空気を語りながら、二つの語群は話し手の立ち位置ごと違っている。
空気ではなく言葉にかかる場所もあります。弁舌さわやか、という言い方がそれで、ここで評価されているのは涼しさではなく、話の筋が滞りなく通っていることです。声がよく届き、言い淀みがなく、聞き手が引っかからない。古くから声や物言いの明晰さにも使われてきた語で、この用法は現代の慣用句の中に化石のように残りました。湿気が抜けることと、言葉の詰まりが取れること。二つはまるで別の現象ですが、直前まであった抵抗が消えるという形だけは共通しています。位相が移っても、この語は状態そのものではなく変化の側を見続けている。ただしこの用法は、慣用句の外へ持ち出せません。弁舌以外の名詞に付けて同じ意味を出そうとしても、読者は空気か人柄のほうへ寄せて読んでしまう。決まった結びつきの内側でだけ生き延びた古い意味というものが、日本語にはいくつもあります。
もう一つ、この語には別の位相移動があります。人にかかる用法です。爽やかな青年という言い方をするとき、空気の話はしていません。声、態度、身なり、匂いの薄さといった、限定された観察の束がそこに入る。しかも束の中身はかなり型にはまっていて、広告や紹介文で使われるうちに、人物の類型を指す標識に近づいてきました。ある語がこう固定していく過程は、役割語が生まれていく道筋とよく似ています。空気を指していた頃、この語には主語が要りませんでした。誰が感じているかを言わなくても、空気は誰の前にも同じように吹いている。人に付けた瞬間に、それが崩れます。誰にとってそうなのかという問いが立ち、答えは書き手が持っているしかない。
だから地の文でこれを人物に使うと、語り手の好意がそこだけ漏れます。避けるべきだという話ではありません。漏れることを承知で置けば、語り手がその人物をどう見ているかを一語で示せる。季語だった頃の非人称と、人物評に使うときの一人称。同じ表記の下で、この語は二つの立ち位置を持っています。どちらで使っているのかを書き手が分かっていれば、読者の側でも位置は揃います。