人の顔は発光しません。皮脂が照明を反射することはあっても、それは喜びとは無関係です。にもかかわらずこの表現は誰にも訂正されないまま流通していて、読者は事実として受け取ってすらいる。物理的に起きていないことが、比喩だと意識されずに読まれている。この状態がどうやって維持されているのかが気になりました。説明の入口としては、良いことを明るさで捉える写像がまず挙がります。認知言語学が扱う概念メタファーの典型例で、身体的な基盤も比較的わかりやすい。明るい場所ではものが見え、見えることは安全に直結する。暗さから明るさへ出るときの感覚が、そのまま評価の軸へ移される。喜びが光として語られるのは、視覚経験の構造を借りているからだ——ここまでは素直に飲み込めます。
ところが対になる表現を横に置くと、話が合わなくなります。喜びの反対側では、顔は曇る。曇るのは空です。そして空は光源ではない。片方の表現では顔が自ら光を発しており、もう片方では顔が光を遮られる面になっている。ふたつの写像は両立しません。同一の対象について、同時に光源であり被照射面であることはできないからです。ここで少し立ち止まりました。矛盾しているのに、誰も困っていない。
答えらしきものは、概念メタファーが一枚の整合したモデルではないという点にありそうです。写像は局所的に、必要な場面ごとに呼び出される。喜びの場面では発光の像が働き、沈みの場面では天候の像が働く。二つを突き合わせる機会が日常には訪れないので、矛盾が表面化しない。比喩の体系は、体系という語から想像されるほど整っていないらしい——このことは、比喩を作る側にとってはむしろ朗報です。整合を要求されないなら、写像を混ぜてもよい。
部位の選び方にも、同じいい加減さが出ています。目を輝かせる、という言い方も同じくらい使われますが、こちらには物理的な裏づけが少しあります。眼球の表面は涙の膜で覆われていて、実際に光を反射する。写真に写る小さなハイライトは、その反射です。顔は違う。皮膚は光を拡散させるだけで、点として光る場所を持ちません。それでも顔のほうが広く使われるのは、面積が大きく、表情という別の情報を同時に運べるからでしょう。物理的な根拠が薄いほうが、比喩としては使い出がある。反射の像に縛られない分、どんな喜び方にも当てはめられます。摩耗が早いのも、たぶん同じ理由です。
英語で同じ場面を書くと、光の入り方が逆になります。his face lit up。lit は light の過去形・過去分詞で、灯される、点けられるという他動性を含んでいます。誰かが、あるいは何かが、その顔に火を入れた。日本語のこの表現では、顔が自ら光を出しているように読める。同じ喜びと光の結びつきを共有しながら、光源が内にあるか外にあるかで分かれています。どちらが正しいという話ではありません。写像が局所的に呼び出されるものだとすれば、言語ごとにどの局所を選んだかが違うだけです。日本語の側にも自動詞形は用意されています。顔が輝く、と書けば光は内から出てきますし、使役形を選べば、誰の言葉が引き金だったかを文の中へ書き込める。像を保ったまま原因の所在だけを動かせる仕組みで、英語が lit up の一語で済ませているところを、日本語は二つの形に分けて持っています。持っている以上、どちらを選んだかは読者に伝わってしまう。自動詞形を選び続けると、その人物は環境から独立して光る存在に見えはじめます。
構文の側にも痕跡が残っています。この表現は使役の形をとりますが、主語である本人には自分の顔が見えません。光っているかどうかを判定できるのは、外にいる誰かだけです。だから一人称で自分について述べると、途端に奇妙になる。視覚由来の比喩が、視点の外部性を構文に固定してしまった例と言えます。裏を返せば、この表現を使った時点で、語りは一度その人物の外側へ出ている。三人称の視点で書いていても、内面に密着していた語りが一瞬だけ離れる。
摩耗を避けたいなら、道は二つあります。光を残すなら、光源を具体化すること。窓から差した光がちょうど当たった、灯りが目の中で揺れた——実在する光を書けば、比喩は事実に支えられて息を吹き返します。光を捨てるなら、筋肉へ落とすこと。頬が持ち上がる、口の端が引かれる、瞬きが一度飛ぶ。どちらを選んでも構いませんが、選ばずに定型のまま置いた一行は、読者の目を素通りします。