止んだ、という一語を否定してみます。止まなかった、と言い換えても、その前に降っていたという事実だけは消えません。降っていなかった可能性は、否定によって回復されない。ここには、文が主張していることと、文が最初から前提にしていることの差が現れています。論理学では前提と含意を分けますが、その区別を確かめる古典的な手続きが、まさにこの操作——否定して残るかどうかを見る——です。残れば前提、消えれば含意。
含意の側の例も並べておくと差が見えます。降った、と言えば、路面が濡れたことが普通は導かれます。しかしこれは取り消せる。降ったけれど路面は濡れていなかった、と続けても文は壊れません。前提のほうは取り消せない。止んだけれど降ってはいなかった、は矛盾になります。同じ一文に、否定に耐える情報と耐えない情報が、別々の層として畳み込まれている。日常の一行が、実はこの二層構造を持ち歩いている。
さらに引っかかるのは、この名詞が自分の中に出来事を抱え込んでいることです。降る、という動詞を添えなければ文にならないのに、添えられた動詞はほとんど新しいことを言っていない。同語反復に近い。ではなぜ必要なのかと考えていくと、動詞が担っているのは物質の名指しではなく、時間の中への位置づけだと分かります。いつ始まり、いつ終わるのか。名詞は物を、動詞は出来事の輪郭を持っている。両方揃ってはじめて、時間の上に置ける。
ただ、実際の文章では動詞なしで済むことがあります。窓の外を見て、一言だけ書く。それでも読者は事態を受け取る。ここで先の説明が崩れかけます。崩れないように言い直すなら、動詞が省略されているのではなく、名詞が事象の名前として直接述語の位置に立っている、と見るほうがよさそうです。物の名前と出来事の名前を兼ねている語だからこそ、この立ち方ができる。
隠れているものは、まだあります。降っている、という文は、どこで、という情報を表面に出しません。それでいて、ここでは降っているが峠の向こうでは降っていない、と続けても矛盾になりません。矛盾しないということは、文が場所を暗黙の引数として持っていて、二つの文が別々の値を入れているということです。時間についても同じで、午前は降り、午後は降らなかった、が両立する。表面には現れないまま、場所と時刻の二つの変数が働いている。天候を述べる文が短くて済むのは、この二つを言わずに済ませているからだと考えられます。省略ではなく、文脈が既定値を供給している。
こうした構造が実作に効いてくるのは、反実仮想を書くときです。あの日降らなければ、という形は、前提の層をひっくり返す操作にあたります。否定に耐えていた既定事項を、わざわざ持ち上げて別の値に置き換える。読者はそこで、物語の中に分岐点が宣言されたことを察知します。だから、この形は乱発すると効かなくなる。何度も分岐点を宣言された物語は、どこが本当の分岐だったのか分からなくなるからです。一度きりにしておくと、その一行が構造を持ちます。