二つの文を並べてみます。「彼は残酷だった。」と、「彼は、飼っていた犬の名を、飼い主の前で一度も呼ばなかった。」前者は句点まで含めて八字、後者は同じく句点まで数えて二十九字あります。長さでいえば三倍以上の差がある。ところが読者の内側に立ち上がる像の量は、しばしば逆になります。計量文体論はこうした食い違いを、印象論ではなく数えられる量として扱おうとする分野です。文字数と情報量が比例しないという当たり前の事実を、どこで比例が壊れるのかというところまで詰めていく。壊れ方に規則性があれば、それは書き手が使える道具になります。
まず語彙密度です。文中の全語数に対して、内容語がどれくらいの比率を占めるかという指標があります。「残酷だった」は、漢語の二字と判定の形式だけでできていて、密度としては高い。短い文に密度の高い抽象語を置くと、文はそこで止まります。読み手は続きを求めず、判定だけを受け取って次へ行く。密度の高い語には、文のリズムを止める働きがあるのです。止めること自体は悪くありません。問題は、止めた場所に何も置かれていない場合です。犬の名を呼ばなかったという一文は、密度でいえば低いほうですが、具体名詞と動作が複数入っているぶん、読者の作業量が多くなります。
次に文長の分布です。ひとつの作品の文の長さを集計すると、短い文が多く、長い文が少ない、右に長い裾を引く形になることが多い。緊迫した場面ではこの分布が変わり、平均も分散も下がります。短い文が続くわけです。そこへ「残酷だった。」のような短い判定文を置くと、周囲と長さが揃ってしまい、他の短文に埋もれる。逆に長い文が連続する箇所に同じ一文を置けば、落差が生まれて読者の目が止まる。同じ語でも、周囲の分布次第で効き方が変わります。効かせたい語ほど、置く場所の前後を先に整える必要がある。
拍の数も無視できません。この語は四拍、「むごい」は三拍、「非情」も同じく三拍、「血も涙もない」は八拍あります。日本語の散文は二拍や四拍のまとまりに落ち着きやすいと言われており、四拍の漢語に「な」を足した五拍の修飾形は、据わりがよい。ただし据わりのよさは、引っかからずに通過してしまうことでもあります——読者の目が滑る。滑らせたくない場面では、拍数の合わない語をあえて選ぶ手もあります。八拍の言い回しはリズムを崩すぶん、そこだけ残る。逆に、通過させたい箇所ではリズムに乗る語を置いたほうがよい場合もあります。
原稿を点検する方法を挙げておきます。評価を含む形容の語だけを抜き出して、それぞれの前後三文に具体的な動作や物が書かれているかを見る。書かれていなければ、その語は場面を作らずに文の長さを埋めているだけです。もうひとつ、原稿一万字あたりに評価語がいくつ現れるかを数えると、書き手ごとに安定した値が出ます。値そのものに正解はありませんが、自分の値を知っていれば、場面ごとに意図して上下させられる。判定は描写の後に来るときにだけ働きます。順序を逆にすると、読者は語を受け取りますが、像は受け取りません。犬の名を呼ばなかった二十九文字が効くのは、判定がそこに書かれていないからです。