赦し

【ゆるし】名詞

使い分けの視点

「赦し」は罪や過ちを覚えたまま、以後の扱いを変える重い語です。「赦免」は制度、「容赦」は罰の加減、「目をつぶる」は不問、「水に流す」は区切りを強めます。一度の決着で終わらせず、同じ記憶が戻るたび選び直す過程として描きます。

同義語

同品詞の類義語

容赦文芸的
寛恕文芸的
赦免文芸的
許容

類義句

同品詞の慣用的言い換え

罪を流す水文芸的
胸を開く態度

直喩変換

「Xのような」「Xみたいに」形式の直喩

春風のような文芸的
水に流すような
雪解けのような文芸的

動詞的言い換え

形容詞・副詞を動詞句に変換

水に流す
目をつぶるcolloquial

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

寛容
宥恕文芸的
慈しみ文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

二度目の選び直しエッセイ関連

例文: 同じ傷が疼いた夜の二度目の選び直しで、彼女は復讐者の名簿を再び閉じた。

冪等でないから、二度目が書ける

二度赦す、という言い方が成り立つのはなぜか。数学には冪等という性質があります。ある操作を二度繰り返しても一度だけ行ったときと結果が変わらないとき、その操作を冪等と呼ぶ。絶対値を取る操作がそうで、二度取っても値は動きません。もしこれが状態を書き換える操作なら、冪等であるはずで、二度目には意味がないことになる。ところが現実には、同じ相手を同じ件について何度も赦し直すという事態が起きます。操作として見た途端に、この語は定義から外れていく。

冪等の反対側にも極端があります。同じ写像を繰り返し適用して、そのたびに前回との差が縮んでいく型です。二点の隔たりを毎回半分だけ詰める操作を考えると、一回目の移動が最も大きく、以後は指数的に小さくなる。有限回ではけっして到達しない——それでも極限としては一点に定まります。反復に意味があり、しかも各回の意味が同じではない、という構造がここにはある。二度目が一度目より軽く見えるのは、扱いが雑になったからではなく、残っている距離のほうが短いからだと言い換えられます。ただし現実の反復は、これほど行儀よく単調ではありません。詰めたはずの隔たりが、次の一件でまた開くこともある。それでも、収束する反復と発散する反復のどちらに近いのかを見分けることは、書く側にとって無駄な問いではありません。

では関係として見たらどうか。二つのものを結ぶ関係のうち、反射律・対称律・推移律の三つを満たすものを同値関係と呼び、これは対象をきれいに類別します。しかし、この関係はまず対称ではない。一方が他方を赦しても、逆が自動的に成り立つわけではありません。推移も怪しくて、AがBを赦し、BがCを赦したからといって、AとCのあいだに何かが成立する理由はない。反射律すら、自分を赦すという行為が特別な難しさとともに語られてきた以上、無条件には認められない。三つとも落ちます。類別の道具にはならない。

「水に流す」という言い方は、商を取る操作に似て見えます。同値関係で集合を割ると、区別されていたものが同じ類にまとめられ、類の内部の違いは二度と取り出せない。過去の出来事を一つの類へ潰して、区別を消す——たしかに、そう聞こえる。けれど商を取る操作は不可逆で、情報は本当に失われます。赦した側は覚えている。覚えたまま扱いを変えているのであって、区別が消えたわけではない。忘却なら商でよいのですが、これは忘却ではないので、比喩がここで折れます。

順序のほうへ移ってみます。負債は半順序として扱いやすい概念で、免除は残高をゼロへ戻す操作として書ける。会計上の債務免除はまさにそれで、赦免という語が法制度と宗教の双方で使われてきたのも、この計算可能性と無縁ではないでしょう。ただ、ゼロに戻すことと、順序関係そのものを取り払うことは別です。残高が消えても、貸した側と借りた側という非対称は残る。制度が処理できるのは前者だけで、後者を動かす手続きは用意されていません。

操作を並べる順番も結果に効きます。二つの写像を合成するとき、順序を入れ替えて同じ結果になる保証はどこにもない。行列の積が可換でないのは、その最も見やすい例でしょう。謝罪と免除を合成する場合も事情は変わらず、謝ってから赦されるのと、赦されてから謝るのとでは、出来上がる関係が違います。後者では免除が先に置かれるぶん、謝罪は義務の履行に近づく。前者では、免除のほうが応答になる。同じ二つの出来事を同じ回数だけ通しても、並べ方が違えば別の状態へ着く。物語の途中でこの順序が入れ替わると、人物の性格まで別人に読めてしまうことがあるのは、順序そのものが結果に組み込まれているからです。場面の入れ替えを検討するときに、時系列だけを見て安全を判断できないのはこのためでもある。

三つの見立てが順に落ちたあとに残るのは、これが状態を書き換える一回の操作ではなく、繰り返し適用される過程だという一点です。冪等でないということは、二度目にもまだ仕事が残っているということでもある。物語がこの主題を扱うとき、決着の場面を一度置いただけで終えると嘘くさくなるのは、おそらくそのためです。強い場面はたいてい二度目以降にあって、一度決めたはずの人物が同じ地点へ戻ってきて、同じ判断をやり直す。繰り返しても結果が変わらないなら、繰り返す姿を書く意味はない。変わってしまうからこそ、二度目が書けます。

文: hakadoru.ai 編集部

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