運転免許証の「免許」という二字には、この動詞が含まれています。特許、許諾、許容、認可。近代の行政文書は、権限を与える行為をこの字で書き表してきました。感情の語として読まれることの多い動詞が、制度の語彙の中核にも座っている。この二つの顔がどこで繋がっているのかを、少し辿ってみます。
古い用法をたどると、この動詞はもともと、緩めることを意味していたと考えられています。張っていたものをゆるめる。締めつけを解く。「気を許す」「心を許す」という言い方に、その古い層が残っています。ここでは誰かの罪を免除しているのではなく、自分の側の緊張を解いている。とすると、罪を免じることも、許可を与えることも、同じ動作を別方向へ適用したものだと見ることができます。禁じるという締めつけがまずあり、それをゆるめる。相手を縛っていた力を、こちらから弱める行為です。
近代に入って、この語は二つに引き裂かれたように見えます。行政の側は漢語を採用しました。許可、認可、免許——制度が扱うのは手続きであって心の動きではないので、感情の含みを持たない漢語のほうが書類に向いている。明治期に各種の資格や営業が届出と許可の対象になっていくにつれ、この字は書類の上で大量に使われるようになりました。一方で和語のほうは、公的な用法を漢語に譲り渡し、私的な関係の領域に残ります。表記でも分業が起きていて、罪については赦の字を当てる書き方が併存している。ただし、この分化がいつ完了したのかを確かな年代で言うことはできません。
社会制度としての赦免は、いまも残っています。恩赦は現在の日本にも制度として存在し、国家的な慶弔にあたって行われた例があります。ここで引っかかるのは、赦す主体が個人ではないことです。誰も感情を動かしていないのに、法的には赦免が成立する。感情を伴わない許しがありうるというのは、日常的な用法から考えると奇妙に見えます。しかし、緩めることが芯にあると考えれば無理はない。締めつけを弱めるのに、心は必要ないからです。
もう一つ、主語が人でなくなる用法があります。「時間が許せば」「事情の許すかぎり」。ここで許可を出しているのは条件や環境で、意志はどこにもありません。制度が主語になれるのなら、時間も主語になれる。締めつける力がある場所には、それを緩める役も置ける、という理屈です。この形が書き言葉に多いのは、行政文書の言い回しと同じ土壌で育ったからかもしれませんが、断定はできません。ただ、意志のない主語を取れる点で、この動詞は感情語というより力の語だと分かります。
ここから創作上の帰結が出てきます。この動詞は、締めつける力を持っている側からしか発せられません。だから対等な二人のあいだで一方が「許す」と言った瞬間、そこに上下が発生する。それまで水平だった関係が、たった二文字で垂直になる。和解の場面でこの語を使うと、しばしば場面が硬くなるのはそのためです。逆に、力を持たない側にあえて言わせれば、その人物が関係の主導権を取り返そうとしていることを、説明なしに示せる。制度の語彙だった過去は、和語の側にもまだ影を落としています。