かつての通知表は相対評価で作られていました。五段階の各段階に割り当てる人数の比率があらかじめ決められていて、クラス全員が去年より理解を深めたとしても、比率のほうは動かない。誰かが上がれば誰かが下がる。この仕組みを不合理だと感じた人は多いはずですが、不合理なのは仕組みではなく、それに何を期待したかのほうでした。順位を割り当てる装置に、学力の総量を報告させることはできません。測っている対象が最初から違うからです。位置を出力する道具と、量を出力する道具は、同じ数字の形で答えを返してくるので、取り違えても気づきにくい。
相対的貧困という指標は、所得の中央値の半分を下回るかどうかで線を引きます。国際比較でよく使われる定義で、注目すべきは、この線が絶対的な金額として与えられていない点です。ある社会の全員の所得が同じ倍率で増えたとしても、中央値も同じ倍率で動くので、線を下回る人の割合は変わりません。全体が豊かになっても、指標は微動だにしない。この性質を知ったとき指標の欠陥だと思ったのですが、しばらく考えて、欠陥ではなく定義どおりの挙動なのだと分かりました。量そのものは、この指標の関心の外にあります。測られているのは、分布の中で誰がどこに立っているかという位置です。
日本語のこの形容詞も、同じように相対的に働きます。ただし数学の定義と違って、閾値を持ちません。どこからが該当するのかを決めないまま、連続量に対して使われる。境界が確定しない述語は、真偽を二値で決めようとすると必ず行き詰まります。所得が一円動いたくらいでは何も変わらないのに、積み重ねればいつか呼び名が変わる。境界の不在は論理の側では厄介な問題ですが、日常の運用ではほとんど困りません。困らないのは、話し手も聞き手も、線ではなく分布の中での位置を共有しているからでしょう。線を引かずに位置だけを指せるという点で、この語は指標より器用に働いている。
そして、この語は所得だけの語でもありません。語彙が乏しいこと、発想の幅が狭いこと、土地の収量が低いことにも使われます。ここで数学の比喩を打ち切るべきかとも思いましたが、むしろどの用法にも共通の骨格が見えます。何らかの尺度が想定され、その尺度の下方に位置している、という形です。尺度そのものは文に書かれない。書かれないまま順序だけが働くので、読者はそれぞれ自分の持っている尺度を当てはめてしまう。同じ一語が、読む人ごとに違う原点で解釈される。たとえば同じ一文を、都市の家賃を知っている読者と、農地の収量を知っている読者が読むとする。両者は同じ語から別の下限を思い浮かべ、しかもそのずれに気づく機会がありません。尺度を書かずに済ませられることは、この語の使いやすさであると同時に、誤読の入口でもあります。書き手が想定した位置と、読者が復元した位置は、めったに一致しない。
複数の尺度が同時に働くとき、順序の性質そのものが変わります。金額だけを見ているあいだは、どの二人を取り出しても必ず上下が決まる。これを全順序といいます。ところが金銭、時間、健康、住まいの安定を並べて見ると、あちらが上でこちらが下という比較が成り立たない組が出てくる。互いに比べられない対を含む順序を半順序と呼びます。日常でこの形容詞をめぐる判断が食い違うのは、片方が全順序のつもりで話し、もう片方が半順序を前提にしているからだと考えると腑に落ちます。比較できないという答えは、判断の放棄ではありません。順序構造そのものが、そこに上下を用意していないだけです。
対になる語との関係にも、対称でないところがあります。豊かさの側は上に開いていて上限がありません。もう一方の側にはゼロという下限がある。所得の分布が右へ長い裾を引き、平均が中央値より上に来るのはこのためです。物語の設計に引きつけると、この有界性は扱いにくさとして現れます。下限に達した状態はそれ以上動かせず、変化が書けない。飽和した状態は、それ自体としては一度しか描写を許さない。二度目に書かれた同じ状態は、進行ではなく停滞として読まれます。
動かすには、尺度のほうを差し替えるしかありません。金銭の軸で底に達している人物が、関係の軸や言葉の軸では別の位置にいる。複数の順序を重ねると、単独の軸では見えなかった動きが出てきます。逆に、絶対量を数値で書いてしまうと、読者は自分の中央値と照合して勝手に位置づけ、書き手が意図した相対位置は伝わりません。金額はそれ自体が中立に見えるぶん、読者の側の分布を呼び込んでしまう。伝わるのはいつも、線からの距離ではなく、すぐ隣にいる誰かとの差のほうです。