大量の文章を集めて、ある語の前後を数語ずつ揃えて並べる。コーパス言語学の基本的な作業で、行を揃えるだけで、その語がどんな語と一緒に現れるかが一目で見えます。この動詞で同じことをすると、左側に立つ語がかなり限られていることに気づく。手、目、体、距離、間。人体の部位と、空間の間隔です。抽象的な対象はあまり来ません。思いを、記憶を、といった目的語は、この動詞ではなく別の語が引き受けている。
共起の強さを測るには、単純な頻度では足りません。もともと頻度の高い語は、どの語の隣にも現れるからです。そこで、二語が独立に出現すると仮定したときの期待頻度と、実際の頻度を比べる。この考え方にもとづく指標のひとつが相互情報量で、値が大きいほど、その組み合わせは偶然では説明しにくいことになります。「手を」との結びつきは頻度も高く、期待値との比も大きい。「目を」のほうは、出現の総数では劣っても、結びつきの特異性はむしろ際立って見えます。
左側に並んだ語をもう一度見ると、二種類が混じっていることに気づきます。手、目、体は離される側の対象です。距離、間、間隔は、離した結果として増える量のほうです。同じ格助詞で受けているのに、名詞が文中で果たしている役割が違う。二台の車の距離を離す、と書いたとき、実際に離されているのは距離ではなく車です。共起する名詞を数える作業は、こういう役割の食い違いを拾い上げる手がかりにもなります。辞書の語義記述はこの差を明示しないことが多く、用例を並べたときにだけ表に出る。
右側、つまり後続の形にも偏りがあります。並べてみると、命令形と禁止形の比率が目に付く。目を離すな、手を離すなよ、離しなさい。行為そのものより、行為を止めさせる文脈で現れる回数が多い。命令や禁止は、相手がすでにその動作をしかけているか、しそうな状況で発されます。つまりこの語が禁止形で出るとき、場面には必ず、離れかけている手か、逸れかけている視線がある。自動詞の「離れる」と対をなしている点も効いていて、対を持つ動詞は、意志の有無を書き分ける道具になります。離れた、と書けば経過の報告に、離した、と書けば決断の記述になる。
表記の揺れは計量にとって厄介な問題です。離すと放す。国語施策として示されている「異字同訓」の使い分け例では、接触をやめる場合と、束縛を解いて自由にする場合とで書き分けるとされます。手を離す、鳥を放す。しかし実際の文章では境界が曖昧で、書き手ごとに揺れる。頻度を数えるときは、表記を統一するか両方を集めるかを先に決めておかないと、出てきた数字が語の使用ではなく表記の癖を測っているだけになる。形態素解析器が語形をどう正規化するかによっても、結果は動きます。
共起の偏りは、書き手にとっては制約であり、同時に資源でもあります。左側に来る語が数個に絞られているということは、そこから外れた語を置くだけで読者の予測が外れるということでもある。ただし外し方には代償がつく。予測を裏切った組み合わせは目立つので、一度使えば場面の焦点がそこへ移ってしまいます。地の文の主役にしたくない箇所では、素直に手か目を置いておくほうがいい。目立たせる語を選ぶ判断より、目立たせない語を選ぶ判断のほうが、長編では回数がずっと多い。