木造家屋が密集した町で火が出ると、延焼は分単位で進みます。江戸から明治にかけての大火の記録を読んでいると、火元から数町先までが半日足らずで焼け落ちている。風向きが変わった、という一行のあとに、町名がいくつも並ぶ。読んでいるこちらの体感速度と、記録された時間の速度が、そこで急に噛み合わなくなります。この噛み合わなさを言い当てるために、日本語は変化そのものを描写するのではなく、変化を目撃していた時間の短さを言う副詞句を持っています。対象がどう変わったかではなく、見ていた側の時間がどれだけ縮んだかを言う——語の重心が、外ではなく内に置かれている。
ここで引っかかります。火事も洪水も、近代に始まったものではない。むしろ前近代の人のほうが、増水する川や燃えていく屋根を、遮るもののない距離で見ていたはずです。だとすれば、この言い方に近代の刻印を読み取ろうとする見立ては、最初から怪しい。事実、目の前で進む変化を言う表現は古くからあり、この語形自体もそれほど新しくはありません。近代が速度を発明したという物語は、たいてい後から作られたものです。
それでも捨てられないものがあるとすれば、目撃の条件のほうです。この副詞句が成立するには、観察者が同じ場所にとどまっていなければならない。定点があって、そこから同じ対象を継続して見ている。だから差分が知覚できる。移動している人には、原理的に使えません。歩きながらこの語を口にするとき、動いているのは対象のほうです。つまりこの語は、速度の語であると同時に、静止の語でもある。速いのは向こう側で、こちら側は動かないでいる——その非対称が、語の中に折り畳まれています。
定点を制度として持っていた例なら、近代を待つまでもありません。江戸の町には火の見櫓が立てられ、番の者が上って周囲を見張りました。半鐘の打ち方で火元の遠近を知らせる決まりがあったと伝えられます。櫓の役目は、火を消すことではなく、動かずに見ていることでした。持ち場を離れないという条件が先にあり、そこから初めて、燃え広がり方が速いか遅いかという判断が出てくる。速度を測るための装置は、すでに町のいちばん高いところに立っていたわけです。裏返せば、櫓のない村では、火は速くも遅くもなく、ただ来るものだった。速度は、見張りの位置とともに生まれる量です。
明治以降に増えたのは、変化の速度ではなく、この定点のほうだったのではないかと考えています。決まった時刻に開く店の帳場、駅のプラットホーム、工場の窓、教室の机。人が一定の時間ひとつの場所に縛られ、そこから外を見るという配置が、制度として大量に用意された。同時に、変化を目盛りで読む道具が日常に入ってきます。相場の板、水位標、体温計の水銀柱。目盛りは差分を可視化する装置ですから、見ている側は「さっきより上がった」と言えるようになる。世界が速くなったというより、速さを読み取る座標のほうが固定されたのだと言うほうが、少なくとも記録との齟齬は少ない。
目盛りの側には、もう一段の制度化があります。明治八年、東京に気象台の前身が置かれ、決められた時刻に決められた計器を読む観測が始まりました。同じ場所で、同じ道具で、同じ時刻に。この三つが揃うと、昨日との差がはじめて意味を持ちます。観測が制度になると、差分は記憶ではなく記録として積み上がり、あとから誰でも読み返せるようになる。定点観測という言い方がいまも比喩として通じるのは、この配置が、いまでも誰の頭にもすぐ浮かぶからでしょう。ただし、記録に残るのは数字のほうだけです。観測簿のどの欄にも、目撃していた時間の短さを書き込む場所はありません。この副詞句が抱えているのは、まさにそれなのですが。制度が速度を可視化した分だけ、語のほうは、可視化されなかった側を引き受けることになりました。
創作の場でこの語が痩せるのは、たいてい書き手の要約として使われるときです。空が曇った、水が増えた、人が集まった——それらは語り手が上空から俯瞰して圧縮した情報にもなるし、ひとりの人物が同じ場所に立って見続けた三十秒にもなる。後者にしたいなら、その三十秒のあいだ人物が動かなかった理由を一行足すだけでいい。荷を抱えていた、返事を待っていた、足がすくんでいた。動かずに見ていた理由が書かれている文だけが、この副詞句を人物の知覚として引き受けます。