「凝らす」を単独で使おうとすると、途端に落ち着かなくなります。何を凝らすのか。目、息、趣向、あとは意匠あたり。現代語でこの他動詞が取れる目的語は、指で数え切れてしまう。ふつうの動詞は目的語を広い範囲から選べます。「置く」も「見る」も「壊す」も、名詞の側にほとんど制限がない。ところがこの語だけは相手を選ぶ。動詞にも社交性の差があるのだと考えると、この語はかなり内向きな部類に入ります。
語の頻度は、極端に偏った分布を作ることが知られています。上位のごく少数の語が全体の大部分を占め、長い裾に大量の低頻度語が並ぶ。「凝らす」は明らかに裾の側の語です。ところが条件を付けると、景色が反転する。「目を」に続く動詞という枠の中で見れば、この語は珍しくもなんともない。全体では低頻度、局所では高頻度。この落差こそが、共起の強さの正体です。頻度を単独で数えているかぎり、この語の実態は見えてこない。
二語の結びつきの強さを測る指標に、自己相互情報量があります。二語が共に現れる確率を、それぞれが独立に現れると仮定した場合の積で割り、対数を取る。独立なら零、結びつきが強いほど大きな正の値になる。「目」と「凝らす」の組は、この値がかなり高い側に来るはずです。片方が現れれば、もう片方をそれなりの精度で予測できる。予測できるということは、後から来るほうが新しく運んでくる情報が少ないということでもあります。
そこから、予測しやすい語は読み飛ばされる、と言いたくなる。ここは慎重にしたい。読み飛ばされることは、必ずしも損ではありません。文章のすべてが高情報量であれば、読者は数頁で消耗します。定型的な共起は、注意を節約させるための舗装路です。問題は、注意を節約させたい箇所とそうでない箇所を、書き手が意識して区別しているかどうかにある。凝視そのものが場面の焦点であるのに舗装路を選んでいるなら、それは失敗です。逆に、凝視が次の描写への通過点にすぎないなら、定型はむしろ正解になる。
もうひとつ、共起の強さとは別に、出現場所の偏りがあります。この句は地の文に馴染む一方、会話文の中では硬く響く。登場人物が「目を凝らしてみたけど」と言うと、少し書き言葉めいて聞こえるはずです。同じ動作を口にするなら「よく見てみたけど」に落ちる。語の分布は、頻度という一次元だけでなく、文体の層という軸の上にも広がっている。計量的に語を眺めるときに厄介なのはこの点で、全体の頻度だけを見ていると、地の文専用の語と会話に降りてくる語が同じ棚に並んでしまいます。書き手が実際に必要としているのは、どの層で使えるかという情報のほうです。
統計は、置き換えの候補も示唆します。「目」の位置を動かす手(視線を、瞳を)、「凝らす」の位置を動かす手(目を細める、目を寄せる、瞬きを止める)。共起の強い組を崩すと、読者は一瞬つまずきます。そのつまずきが狙いなら成功、そうでなければ雑音にすぎない。定型を壊すかどうかは、その一文に読者の注意を何秒使わせたいかで決まります。文章の設計は、たいていこの配分の話に帰着する。何を書くかを決めたあとに残っているのは、どこで読者を止め、どこで通すかという判断だけです。