英語で I see と言えば、目の前の何かが見えたという意味にも、相手の話が分かったという意味にもなります。この二重性は英語の癖ではありません。ギリシャ語で「イデア」の語幹が「見る」に由来するとされるように、多くの言語で視覚の動詞は理解や認識の意味を兼ねてきました。日本語も例外ではない。「先が見えてきた」「見通しが立つ」「うちの会社をどう見ていますか」——これらの文で、目は何も映していません。それでも視覚の語彙が使われ、誰も比喩だと意識しない。
認知言語学は、この現象を概念メタファーという枠組みで説明します。一九八〇年にレイコフとジョンソンが提唱した考え方で、要点は、メタファーが文章の飾りではなく思考の骨組みだということです。抽象的な概念はそれ自体では掴みどころがないため、身体的な経験の構造を借りて理解される。「理解は視覚である」はその代表例で、知ることは見ること、不明は闇、説明は照明という対応の網が、語彙の隅々まで張られています。「その点はまだ不透明だ」「論点を明るみに出す」——こうした言い回しは、すべて同じ一枚の写像の上に載っている。
この動詞の日本語での拡張ぶりは、写像の地図としてよくできています。視覚から認識へ(「甘く見る」「大目に見る」)、認識から経験へ(「痛い目を見る」「馬鹿を見る」)、経験から管理へ(「面倒を見る」「留守を見る」)、そして試行へ(「食べてみる」「書いてみる」)。最後の補助動詞用法では、もう視覚の意味はほとんど残っておらず、表記も仮名に開かれるのが普通です。漢字で「食べて見る」と書くと誤記に近い印象を与えるのは、意味の抜け殻に字だけが残ることへの違和感でしょう。身体の動詞が抽象の階段を登りきって、文法装置になった姿です。
写像は上下の方向にも伸びています。見上げる、見下ろす。ここまでは視線の物理ですが、相手を下に見る、見上げた心がけ、といった言い方になると、目の高さがそのまま社会的な位置に読み替えられている。空間の上下に優劣を割り当てる別の写像が一枚重なり、その上に視線の方向が載っている状態です。二枚が噛み合っているせいで、「見下す」の一語で態度と地位の両方が言えてしまう。しかも賞賛の意味で使うとき、実際の身長差はまったく関与しません。写像が完成すると、もとの身体経験は参照されなくなります。目上、目下という言い方も、視線の高さを身分の高低へ重ねた形として読める。比喩が骨格まで沈み込むと、そこに比喩があったことすら見えなくなります。
ただし、写像は一枚岩ではありません。日本語は理解を視覚だけに任せてこなかった。腑に落ちる、呑み込みが早い、噛み砕いて説明する——消化の語彙も、理解の重要な持ち場を占めています。視覚系の理解が距離を保ったまま対象を把握する感触を持つのに対し、消化系の理解は対象を身体に取り込んで自分のものにする感触を持つ。同じ「分かる」でも、質感が違うわけです。人物が真相に到達する場面で、「ようやく見えた」と書くか「ようやく腑に落ちた」と書くかは、その人物と真相との距離の設計にほかなりません。
第三の系統もあります。掴む、把握する、手に負えない——手の動作から理解へ渡る語彙です。英語の grasp、ドイツ語の begreifen も同じ経路をたどっており、日本語の「把握」は掌に握る意の字を二つ並べた語です。視覚が距離を保ち、消化が体内へ取り込むとすれば、触覚は距離をゼロにしたところで止まる。対象は自分の外にあるまま、手の中にはある。三つの系統は理解の質感を三通りに分けていて、どれを選ぶかで人物と対象の関係が変わります。真相を見た人物と、掴んだ人物と、呑み込んだ人物は、同じ結論に達していても、そのあと取る行動が違うはずです。触覚系だけが、失敗を言うための語を豊富に持っているという偏りもあります。取り逃がす、手に余る、掴みどころがない。理解できなかったことを視覚系で言おうとすると、見えないの一語へ痩せてしまう。
ありふれた動詞の底には、こうした写像の地層が眠っています。書き手にとっての実益は、地層を意識すると比喩の混線に気づけるようになることです。視界の比喩で始めた段落を消化の比喩で締めると、読者は理由の分からない段差を踏む。逆に、一つの写像で場面を通せば、文章は静かに筋が通る。その目に見えない一貫性を、この最短の動詞の見えない仕事が支えています。