『こころ』の先生は、Kに何も告げないまま、下宿の奥さんにお嬢さんとの結婚を申し込みます。手続きの上では違法でも何でもなく、明文の約束を破ったわけでもない。それでも読者は、そこで決定的な何かが起きたことを疑いません。近代以降の小説がくり返し扱ってきたのは、この種の出来事です——法にも契約にも触れないのに、関係が回復不能になる瞬間。共同体の掟が薄れ、個人が個人に対して負う信義だけが残ったとき、それを言い当てる語彙が必要になりました。
語源には複数の説があります。戦場で味方の背後、つまり裏へ回ることを指したという説、「裏」を心の内側と取る説。どれか一つに決めきれるだけの材料はないようです。ただ、いずれの説でも「裏」という空間語が使われている点は共通していて、表に見えている関係と、その背後で進行している別の関係という二層構造を含んでいる。二層あるからこそ、暴露という出来事が成立します。一層しかなければ、あるのは単なる敵対で、物語にはなりません。
文語の時代には「そむく」がありました。これは主君や神仏や親といった、上位の存在に対して用いられる語です。方向は下から上へ。近代文学が必要としたのは、対等な関係のあいだで起きる違反のほうでした。友人、恋人、同志。上下がないぶん、違反を裁く外部の権威も存在しません。裁く者のいない違反をどう書くかという問題が、この時期の小説には形を変えて何度も現れます。処罰が来ないので、決着は人物の内側でつけるほかない。
太宰治の『駈込み訴へ』は、ユダの一人称で語られる短編です。訴えの言葉が加速していくうちに、愛情と憎悪の区別がつかなくなり、最後に密告へ至る。ここで書かれているのは行為の悪ではなく、行為に至る内面の速度です。同じ素材を三人称で外から書けば、犯罪の記述にしかならなかったはずのものが、人称の選択ひとつで別の主題に変わっている。誰の位置から書くかが、道徳の位置を動かした例と言えます。
対象の側にも変化が起きています。この動詞は本来、人を目的語に取る語でした。ところが現在では、期待を、信頼を、予想を、といった抽象名詞を目的語に取る用法が広く使われている。相手が人でなくなると、責任の所在も薄まります。誰かの期待に応えなかっただけの人物と、特定の誰かを欺いた人物とでは、負っているものが違う。さらに、予想を外して良い結果になった場合にこの動詞を使う言い回しも定着していて、そこでは価値が反転しています。同じ語形が、非難にも称賛にも使える状態です。書き手が抽象名詞のほうを目的語に選んだ時点で、場面の温度は一段下がる。
森鷗外の『舞姫』では、豊太郎がエリスを置いて帰国します。語り手は自らを弁明しつづけ、その弁明が読者には言い訳に見える——このずれこそが作品の効果を作っている。信頼できない語り手という手法がこの題材と相性のいいことは、偶然ではないでしょう。自分の行為をそう呼びたくない人物が語れば、語りそのものが歪み、歪みが読者へ情報を渡す。書き手にとっての含意は、行為を地の文で名づけないという選択です。名づけた瞬間に判断は済んでしまい、読者に計算の余地が残らない。近代の小説が磨いたのは、その一語を誰にも言わせないまま場面を終える技術のほうでした。