売れ行きが芳しくない。経過が芳しくない。この語に日常で出会うとき、ほぼ確実に後ろには打消しが付いています。逆に、肯定形で花や茶の香りを述べた文に出くわす機会は、体感でいえばずっと少ない。学校で習うのは肯定形の語義のほうですし、辞書の第一義もそちらから始まるのに、実際の文章のなかで待ち構えているのは否定形です。同じ一語なのに、否定形のほうが本体で、肯定形が例外のように振る舞っている。この逆転が気になって、しばらく考えていました。
計量的に語を眺めるとき、最初に出てくるのは全体の分布の話です。語の頻度を高い順に並べると、順位と頻度の積がおおよそ一定に近づく——Zipf 則として知られる経験則で、少数の語が全体の大部分を占め、大多数の語は稀にしか現れない。この形は言語を問わず繰り返し観測されていて、語彙の設計というより、選ばれ方の統計的な帰結だと考えられています。ただ、この語について引っかかるのは全体の分布ではありません。一語の内部にも分布があり、活用形と共起相手の組み合わせに大きな偏りが生じうるということのほうです。見出し語の頻度を一つの数で代表させると、内部の偏りは平均に潰されて見えなくなる。実際に必要なのは、直後に何が来るかまで含めた二語連なりの分布であり、n-gram という単位が意味の観察に効くのは、まさにこういう場面です。
なぜ否定側だけが残ったのか。考えられる筋は、肯定側の仕事が他の語に分担されたということです。嗅覚をそのまま述べる場面には、香りの立ちのぼる感じを直接あらわす語がいくつもあり、そちらのほうが口語として据わりがよい。焼けた穀物の匂いを指す近い形の語も別に存在していて、そちらが日常語の位置を占めています。行き場を狭められた肯定形に対して、否定形のほうは嗅覚から離れ、結果や状況の評価語として抽象化していった。ここで気づくのは、意味変化が語の単位ではなく形の単位で進みうるということです。一つの語が、肯定形と否定形とで別々の歴史を歩んでしまう。辞書の見出しが一つだからといって、その下にある実体も一つとは限らない。
ただ、肯定形が死んだと書くのは言い過ぎでしょう。書き言葉、とりわけ文芸や商品の説明文では、肯定形はいまも生きています。つまり消滅ではなく、レジスターごとに分布が割れている。全体の頻度という一つの数字は、この割れ方を隠します。分布の形を見ずに平均だけを見ると、山が二つある分布を、中間のどこにも実体のない一点で代表してしまう。語彙の計量が難しいのは、たいていこの種の取り違えが原因になっている。頻度が同じ二語でも、片方が全ジャンルに薄く広がり、もう片方が一つのジャンルに集中していれば、書き手にとっての意味はまるで違います。
書き手にとって、共起の統計は読者の予測の近似だと考えると扱いやすくなります。読者は文を左から順に処理し、この語幹を見た瞬間に打消しを予測する。そこへ肯定形が来ると、予測が一度外れる。外れること自体は悪くありません。文語的な手触りや、語り手の教養や、場面の格式が、その小さな外れから立ち上がることがある。ただし外し続ければ、読者の負荷は積み上がっていく。肯定形で香りを書くのか、否定形で結果を書くのか——同じ語を選びながら、実際には別の二語を選んでいるのだと考えたほうが、迷いは少なくなります。