この言い回しが実際に使われている場面を集めてみると、羽が出てくることはまずありません。机から滑り落ちた便箋、手すりを越えていく雪、階段を降りてくる人の身のこなし。指しているのはいつも別のものです。比喩なのだから当然だと言えばそれまでですが、比べられている二つの落ち方が、物理的にはさほど似ていない場合も多い。それでも通る。何が通しているのかを、文の組み立ての側から見てみます。
まず目につくのは、この句が内部に主語を持っていることです。羽が、というガ格が立っている。ここが、同じ位置に置ける短い副詞との決定的な違いです。ふわりと、には主語がありません。だから読者の頭の中では何も起こらない——ただ動きの質が調整されるだけです。ところがガ格を含む句は、主節の出来事とは別に、小さな出来事をもう一つ立ち上げてしまう。一文の中に、実際に起きている落下と、起きていない舞い上がりが同時に置かれることになります。
形の面では、内部の動詞が非過去に固定されている点が効いています。試しに過去形に替えてみると、意味の種類が変わります。舞ったように、と言った途端、それは動きの様子ではなく、そういう痕跡が残っているという推し量りに寄る。雨が降ったように濡れている、と同じ構えです。様態を述べる用法は非過去でしか成立しない。同じ接続助詞が、内部のテンスの違いだけで様態と推定に分かれる——この非対称は、比喩を書くときに黙って踏んでいる規則の一つです。
もうひとつ、係る先にも制限があります。この句が求めるのは動作か変化であって、状態ではない。落ちた、降りてきた、広がった、には自然に係りますが、静止した性質に係らせようとすると座りが悪くなる。様態の副詞句は、時間の中で進行する何かに寄り添うようにできているからでしょう。逆に言えば、この句を置いた文は、その文自体が動いていなければならない。
否定と組み合わせると、この句の独立性がもっとはっきりします。舞うように落ちなかった、と書いたとき、否定されているのは落下そのものなのか、落ち方だけなのか。読み手はふつう後者に取ります。落ちてはいるが、そういう落ち方ではなかった、と。つまりこの句は、主節の否定の外側に立つことができる。同じ位置にある短い副詞では、この読み分けはあまり起こりません。内部に主語と述語を備えた句だから、否定の届く範囲の外へ抜け出せる。比喩の句が文の中で半ば独立した単位になっている証拠が、ここにも出ています。
そこまで分かると、使いどころが絞れてきます。長い句を選ぶということは、読者にもう一つの出来事を組み立てさせるということです。組み立てる時間の分だけ、主節の動作は遅れて着地する。速い動きに添えると、その遅延が邪魔になる。逆に、遅らせたい落下——見ていたくない結末や、時間が伸びる瞬間——では、遅延そのものが効果になる。文法の制限は、書き手が思うより早く、使いどころまで決めてしまっています。