絶えざる

【たえざる】連体詞

使い分けの視点

途切れない状態に、文語らしい格式と称賛を加える連体形です。「絶え間ない」は中立的な継続、「尽きせぬ」「終わりなき」は文学的な広がりを持ちます。硬い調子が必要な碑文、宣誓、年代記などへ絞って使います。

同義語

同品詞の類義語

絶え間ない
止むことのない文芸的
尽きせぬ文芸的
絶え間なき文芸的

類義句

同品詞の慣用的言い換え

途切れることのない
終わりなき文芸的
果てなき文芸的

婉曲・強調変換

ニュアンスの増減(婉曲化・強調化)

片時も止まぬ文芸的
ゆるぎなき文芸的
ひとときも止まぬ文芸的

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語釈エッセイと合わせて読む表現

下の語釈エッセイの論点とつながる言い換え・関連表現です。

絶えざる灯を碑に刻むエッセイ関連

例文: 灯台守たちの働きを称え、町は絶えざる灯を碑に刻むことにした。

口語文にひとつだけ混じる活用——文語形が捨てられなかった経緯

公園の隅や学校の玄関脇に、顕彰の碑が立っていることがあります。文面はたいてい現代語で、生年と没年、業績、寄付者の名が並ぶ。ところがその中に一箇所だけ、時代の合わない語形が混じっていることがある。絶えざる努力をもって、といった一句です。前後はすべて口語なのに、そこだけ活用が古い。彫った人がわざと古めかしく飾ったのかというと、おそらくそうではありません。碑文を書くときに手元へ寄ってくる言い回しの束の中に、この句がひとかたまりで入っていただけでしょう。碑文には、そうした既製の部品がいくつも組み込まれています。

碑文に限らず、この語形は現代語の文章に混じっていても、たいていの読者を立ち止まらせません。けれども、周囲と時代が合っていないことに変わりはない。打消の助動詞「ず」の連体形「ざる」は、口語文法の体系には存在しないからです。「知らざる」「書かざる」といった形は、言文一致を経た散文からほとんど姿を消しました。それなのに、この一語だけは平然と生き延びている。文法的にはよそ者のはずなのに、誰も入国審査をしない。ここが引っかかります。

明治二十年代、二葉亭四迷が『浮雲』で試みた言文一致は、その後数十年をかけて散文の標準を入れ替えました。入れ替わりは語尾から進みます。文末の「なり」「たり」が「である」「だ」に置き換わり、連体修飾の文語形も順に落ちていった。ただし落ち方は一様ではありません。句としてひとかたまりに固まっていたものは、活用表から切り離されて生き残る。「已むを得ざる事情」「言わざるを得ない」——今も書類の中に居座っているこれらは、もはや動詞の活用というより、ひとつの語のように扱われています。分解されなくなった句は、活用の規則が入れ替わっても壊れません。

動詞の側の来歴も見ておきます。絶ゆ は古語では下二段に活用し、連体形は 絶ゆる でした。和歌でこの動詞が引き受けたのは、命や恋や音信が途切れることのほうです。玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする——式子内親王のこの一首で、絶える主語は命の緒であり、しかも切れてしまえと願う側から詠まれている。古典の用法では、この動詞は望ましくない断絶を指すのが普通で、途切れないことを称える方向には向いていませんでした。打消と組んだ形だけが価値の語になったのは、和歌の伝統からではなく、あとから来た文体の事情によります。素材が中立でも、否定を掛けた形だけが評価語として抜き出されることがある。現代語の 絶える にも、この暗さは残っています。家系が絶える、消息が絶える、笑い声が絶える——単独で使えば、失われたことを述べる語です。打消と組んだ瞬間にだけ、語は向きを変える。

ここで、生き延びたという言い方が雑かもしれないと思い直します。試しに置き換えてみる。「絶えない努力」。意味は通ります。しかし何かが落ちる。落ちるのは荘重さだけではありません。「絶えない」は事実の記述で、途切れていないという観察を述べているだけです。対して文語形のほうは、途切れないことを称える態度をあらかじめ含んでいる。つまりこれは同じ語が古い衣をまとって残ったのではなく、別の語として登録し直されたと考えたほうが辻褄が合う。文語であることが、そのまま評価の目盛りになったのです。

その目盛りがどこで作られたかを考えると、近代の公的な言語が浮かびます。演説、碑文、社史、翻訳された宣言文。原文が抽象名詞を重ねる西洋語であるとき、訳文は漢語と文語脈で受けるのが習いでした。同じ意味領域には和語系の「絶え間ない」もありますが、こちらは時間の連続を淡々と述べるだけで、格式を運びません。両者の差は意味ではなく、どの文体の記憶を背負っているかの差です。だから読者は、内容を取る前に、誰かが襟を正して喋っている感触のほうを先に受け取ります。内容より姿勢の情報が先に届く語というものがある。

小説でこれを使うときに起きるのは、語り手の高さの変化です。地の文に置けば、語り手は人物より一段上がった位置から出来事を見ることになる。人物の台詞に置けば、その人物の教養か、演説癖か、あるいは古い時代に属していることが露出する。効果としては強いが、そのぶん連発できません。文語が一語だけ混じっているという状態そのものが情報なので、二語目からは情報が消える。使うなら一篇に一度とし、その一度が語り手の背筋を伸ばしてよい場面かどうかを先に決めておきます。決めずに置くと、格式だけが宙に浮きます。

文: hakadoru.ai 編集部

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